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【連載小説】『小さな悲劇で満ちたこの世界で』8. 交わる運命(3991字)

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
7. 刑事たち

8. 交わる運命
 
 袴田は、澤口美羽みわが聖マシュー大で教え始める前に石川との接点がなかったのか、夫の圭佑けいすけとはどういう経緯で結婚したのか、範囲を広げて調べることにした。また、石川と美羽の夫圭佑に過去のどこかでなんらかの接点があった可能性もあった。
 そのことを最初に一緒に現場に赴いた守山署の山口に話すと、意外にも自分の聞き込みの傍ら、石川と圭佑の接点を調べることを申し出てくれた。
 美羽と石川は、やはり美羽が聖マシュー大に来る前には接点らしい接点はなかった。石川は東京生まれの東京育ち、自宅は世田谷で、幼稚園から大学まで慶応だった。
 カリフォルニアの大学で博士号を取り、ニューヨークの大学で2年間教えたあと、聖マシュー大の准教授となった。それ以来ずっと大学近くの分譲マンションで1人で暮らしていた。
 美羽の旧姓は藤原で、北海道釧路市で生まれ育った。12歳のときに交通事故で両親を亡くし、祖母の富子とみこに引き取られた。その富子は15年前に病死している。
 高校卒業と同時に上京した。1年間アルバイトをして学費を稼ぎ、上京した翌年に慈秀じしゅう大学国際学部に入学した。住所は足立区だった。
 4年で卒業し、愛知県に本社を置く自動車メーカーに就職した。会社が運営する技術博物館の英語通訳案内の仕事だった。
 当時は、技術博物館のある伏見ふしみ駅から地下鉄で4駅行った荒畑あらはたのアパートで暮らし、結婚後は東区泉に引っ越した。
 学校や仕事、居住地では、美羽と石川が知り合いになることは非常に考えにくかった。圭佑と美羽の馴れ初めにも、何ら不審な点はなかった。
 圭佑は、イギリスからのクライアントの接待で、美羽が働く技術博物館を訪れ、圭佑たちの案内を美羽が担当した。
 圭佑が忘れた書類の入った封筒を、美羽がその日のうちに圭佑の会社まで届けてくれたことがきっかけで交際が始まった。1年の交際ののち、2人は結婚した。美羽は就職2年目で結婚退職した。
 山口も石川と圭佑の接点を見つけることができなかった。しかし代わりに、驚いたことに、圭佑と袴田の父親の事件との接点を見つけてきた。
 圭佑は、少年グループが矢場町やばちょうの公園で袴田の父光一に絡んでいるところを目撃していたのだ。捜査開始後、警察でそのことを証言した。圭佑の証言が、犯人特定の決め手となったのだ。
 袴田も当時の捜査資料を確認した。間違いなく澤口圭佑の名前と目撃証言が記されていた。袴田は、山口がもたらしたニュースにかっと全身が熱くなる気がした。
「こんな偶然があるのだろうか」
 袴田は混乱した。袴田は迷信や宗教は信じない。しかし、まるで神か何かが袴田や澤口美羽、夫圭佑の運命もてあそんでいるとしか思えなかった。
 調べてきた山口は、袴田が予想以上にショックを受けていると感じた。
「袴田ちゃんよ、名古屋は狭いからな。何かあるとどっかからは関連が出てくることもあるわ。澤口圭佑が犯人だったわけじゃないしな。袴田ちゃんの親父さんが働いとった商社、矢場町だったろ。澤口は、当時は23の金持ちのお坊ちゃんだ。夜はそりゃ、遊び回っとったに決まっとるわ。夜が早い名古屋で遊び回るなんて、場所が限られとっただろ。矢場町はそれなりに夜の店があるからな」
 袴田は、山口の話を聞いているうちに、過剰反応だったかも知れないと思い始めていた。
 そして、いい年をしてスマフォばかりいじっている山口は、袴田が今まで知らなかっただけで、実はバランスの取れた洞察力の持ち主だと知った。父親の事件にしても、人を見る目にしても、自分はまだまだだと自省した。
 袴田はメールで、自分の父親の事件で澤口圭佑が証言していたことを城島に知らせた。山口の考えにも触れ、自分が捜査を続けることに問題がないかどうかも尋ねた。
 城島は、すぐに袴田の携帯に電話してきた。
「そりゃ、驚きだな。まあ、だが山口の言うとおり、単なる偶然だと思うがな。どうだ、袴田は大丈夫なのか。お前が自分で大丈夫だと思うなら、捜査を続けても問題ないと俺は思う。圭佑がお前の親父さんを殺した犯人を目撃しとったからといって、お前、万が一、石川の事件で澤口美羽の犯行を示す証拠が出てきたら、圭佑に恩義を感じて美羽の犯行を大目に見たりするか。そんなことせんだろ」
 城島の言うとおりだった。袴田が黙ったままでいると、城島は続けた。
「確か澤口の事件の関係者には、犯罪被害者家族から話を聞いとるって言ったんだろ。澤口美羽にも話を聞いてみたらどうだ。圭佑の証言でお前の親父さんを襲った犯人が捕まっとったって知ったら、心を開くかも知れん。言いたかったら、圭佑本人じゃないが、親父さんの事件のこと、礼を言うこともできるぞ。ただ、慎重にな」
 袴田はちょっと面食らったが、こういうつながりで敢えて話を聞くというのは、さすが城島だと思った。
 それに、美羽にでも礼を言えたら気が楽になる気がした。証言してくれた圭佑という人間について美羽と話してみたいとも思った。
 石川事件の特捜本部が苛立ちを募らせる中、袴田は、圭佑の事件の話を聞きたいと言って、美羽と会う約束を取り付けた。
 袴田が県警本部で会うことを提案すると、美羽は、土曜日の午後、美羽と圭佑が住んでいたマンションから徒歩圏内の喫茶店のコメダで会うことを指定してきた。
 袴田が約束の1時半ちょっと前に到着すると、美羽の姿はまだなかった。美羽は時間どおり、息子の日向を連れて現れた。
「こんにちは。澤口です。袴田さんですね。聖マシューでお会いしましたね。澤口の両親からも話を聞かれたって」
 グレーがかったベージュのコートを脱ぎながら、少し硬い表情でそう言った。
 美羽は、秋らしいネイビーのニットのワンピースを着て、長い髪を右耳の下で緩い三編みにしていた。
「ほら、日向ひなたの会いたかった本物の刑事さんよ。ちゃんとご挨拶して」
日向の方を向かってそう言うと、日向の肩に手を置いた。
 日向は照れ笑いしながら、言われたとおり挨拶した。
「こんにちは。澤口日向です」
「こんにちは。袴田穂高です。守山署の本物の刑事です」
 袴田は、場を和ませようと、少しだけふざけて言った。日向は、美羽と同じ目をしていた。強い生きる意志を思わせる、きりっとした目だった。
 袴田は、自分と同じように突然暴力的に父親を奪われた日向に、今まで他の誰にも感じたことのないつながりを感じた。
 心の奥の重く冷たい塊に、はじめて温もりが届くような感覚だった。目の奥が熱くなるのを感じ、慌てた。美羽と日向の前にメニューを置き、手を上げて店員を呼んだ。
 袴田は最初に、話したくないことは無理に話さないようにと美羽を気遣った。そして、自分も父親を犯罪で失ったことを詳細に立ち入らずに打ち明けた。
「まあ、そうなんですか」
美羽はわずかに眉を寄せた。美羽の表情から硬さが消え、眼差しは袴田への同情で満たされたように見えた。
 美羽が圭佑の事件について話してくれたことは、袴田がすでに知っていることばかりだった。
 美羽だけが知りえる美羽の心の中の動きについては、美羽はあまり語りたがらなかった。夫を突然、理不尽に奪われた妻に、はじめて会った刑事にそんなことを話せという方が無理な相談だったのかも知れない。
 代わりに美羽は、袴田の父親の事件についていろいろ尋ねてきた。といっても、事件の事実関係や犯人のことではなく、袴田を気遣うような質問ばかりだった。事件は袴田がいくつのときだったかとか、辛い気持ちは和らいできたかとか、母親は大丈夫かといったことを言葉を選んで訊いてきた。
 袴田は、美羽の隣りで静かに袴田と美羽のやり取りを聞いている日向の表情に気を配りながら、質問に一つ一つ丁寧に答えた。
 袴田は、自分のことを話しているうちに、美羽にもっと父親の事件のことを話したくなった。思い切って、圭佑が父親の事件の目撃証言をしたことを告げた。
 美羽は押し黙ってしまった。当然といえば当然だった。強盗に殺された夫が、目の前の刑事の父親の殺害を目撃していた。動揺するなと言うのは無理な相談だ。
「ご主人にお礼を言いたいです。ご主人の証言や協力がなければ、犯人は捕まらなかったかも知れない。もし捕まってももっと時間がかかったかも知れない」
袴田は、何も言わない美羽に頭を下げた。
「そんなことしないでください」
美羽は、穏やかだが断固とした口調で言った。袴田は、美羽に気まずい思いをさせていると気づいた。
 頭を上げると、悲しい表情をした美羽の顔があった。袴田は、美羽の気遣いに甘えて余計なことを言ってしまったと後悔した。
 美羽は、袴田の気持ちを察したかのようだった。
「生きてるといろいろなことがありますね。こうして袴田さんがご立派になられて、お父様もきっと喜んでいらっしゃいますよ」
 そして、日向に向かって微笑んだ。
「日向、刑事さんに訊きたいことがあるんでしょ。お尋ねしてみたら」
 袴田は、日向からの質問に20分ほど答えて、美羽に礼を言い、2人と別れた。
 石川の事件はもとより、圭佑の事件についても何の収穫もなかった。それに、圭佑の人となりも美羽から聞くことはできなかった。美羽に嫌な思いをさせたと、苦い思いを拭えなかった。
 翌日、思いがけず美羽から袴田の携帯に電話がかかってきた。
「お休みのところごめんなさい。でもどうしてもお伝えしたいことがあって。昨日は日向がいたので言えなくて。どうか、主人に感謝なんかしないでください。主人は、犯人たちがお父様に絡んでいるところを見ただけじゃなかったんです。主人は、お父様が殴られたり蹴られたりするところを見て見ぬふりしたんです。110番さえしなかったんです。もし主人がすぐに通報していれば、お父様は亡くならずに済んだかも知れないんです。ごめんなさい」
 それだけ言うと、袴田の応えを聞くこともなく電話を切った。(つづく


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