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ボツネタ⑭「〝治る〟の向こう側の景色」

※この作品は、2019年の自分史(短編部門)に応募するために書いた2本のうちの1本です。NOTEに掲載するにあたり、気がついた分については、多少修正や加筆しております。

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『〝治る〟の向こう側の景色 』

 自分史を書いてみようと思ったのは実は今回だけではない。3年程前に一度チャレンジしてみたものの熊本地震が起きたことから、まだ自分史を綴るには早いのかもしれないという考えに及び一旦あきらめた。元々長文で構成することは苦手だし、自身の内面で起きている状況を言語化することも下手くそだと自身では思いこんでたことも理由の1つ。何故なら私は単なる詩を書くことが好きなだけの素人だったからというのもある。

 それと、その当時はまだ治療中で、それなりに治っていた感覚でいた。ただ、その年の春に発達障害の当事者の方の講演会に参加したことや今思えばなんでもないようなことで怒りが沸点越えをしたことから、そんな自身を急停止させるために数度目のOD(オーバードーズ~多量服用~)をやっちまったのである(汗) やっちまった後に目が覚めたのは2日後。親戚の姉がアパートのチャイムを鳴らすまで私はずっと眠っていたのだ(汗)。そんな大事件がきっかけとなり、自分自身が全く治っていなかったことを認めざるを得ず、今度こそはきちんと2次障害となっている〝うつ病〟だか〝人格障害〟だか〝統合失調症〟だかを治そうと〝断固たる決意〟ってやつをし、10年弱飲んでいた向精神薬を自己判断で断薬をした。(自己判断の断薬はとても危険なので、良い子は真似しないようにしましょう。) そういった状況におちいったことで、それまでに何度か受診したことのある精神科医のカリスマといわれている神田橋條治先生のところへ折にふれ通院をはじめたばかりの頃になる。

 私が向精神薬を飲み始めたのは〝ADHD〟という診断をうけた約12年前。診断をうけたと同時に2次障害の〝うつ病〟も発覚した。12年という月日の中で、私なりの「治る」という感覚を何度も次元上昇させてきたものの、自身が本当に困っていた精神的な症状や自身でも感じていた不具合は治療を行っている最中にハッキリと歴代主治医に伝えられないままだった。それでも、その時々の私なりの「治った」という感覚は感じてはいたのだが、常にどこか満足できない自分も併存していたことは、自身の中でうっすらと自己矛盾に感じていたのかもしれない。そりゃそうだ。今考えれば、自身の都合のいいことだけを主治医に語ったところで、私が治したかった〝うつ病〟も〝悪癖〟も自分に都合のいい部分は治ることに至っても、本当に治したい部分は治るハズはなかったのだ。  

 意識的には治したい私もしっかり存在していたのだけれど、無意識下では私の内側に存在していた、もう一人の自身の聲が聴こえている方向へは向かわず、そことはある程度の距離を保ちながら、薬やスピリチュアル又は占いといった他人軸の鎧で誤魔化して生き長らえてきたのだから…。それでもその当時の私にはそれが生き延びる戦略だった。自分では鈍感なタイプだと思い込んでいたけれど、実は繊細だったからこそ、自分自身を壊さないための手段にもなっていたのだろうと思う。それでも自分の悪癖を治したくて精神治療とは別次元の世界の方法で自分なりに様々な自己治療を行い、心身共に自己のケアに努めていた。ネットでみかけたどなたかの言葉を拝借すれば、思春期の頃から他人軸で纏ってきた鎧を玉ねぎの皮を外側から1つ1つ剥がしながら自身の悪癖と向き合う日々を送っていた。それが3年前のことになる。  

 〝人格障害〟といった診断は受けてはいないが、実は思春期の頃から私の内側にもう一人の自分を置き去りにして生きていた30年を過ごしてきた。そしてそんなどこか分裂し統合できていない自分にもいい加減嫌気がさしたのだ。もういい加減自分自身をとり戻そう。本来の私に還ろうってそう思い自宅療養をした。それは、10年程前に閉鎖病棟へ入院したことから一度離れ離れになった息子(自閉症+知的障害)と暮らすためでもあった。一度はあきらめかけた母親のやり直しのチャンスが巡ってきたとそう思ったからでもあった。というより息子との親子関係をやり直すことが私たち母子にとっても治療のようなものだと思ったからだ。それでも一抹の不安はあった。まだ治り切ってない自分がまた息子とやっていけるのだろうか…。そんな不安は私よりも周囲の人たちのほうが感じていたのだろうと思う。私自身も不安ではなかったわけではないが、どう考えても私じゃないと息子の言わんとすることを判る人は存在しないと思った。それに、息子の起こす問題行動を受け止められる人は私しかいないだろうといった確信は持っていたからだ。

 私がまだ元気なうちに、伝えられることは伝え、教えられることは教えてあげたい。ダメ人間の私だけれどそれなりの親心はもっているというか芽生えたといっていいのかもしれない。入院する前の私はどこか他人事のような育児をしていたようにも思うからでもある。そんな当初の私からすれば、随分人として成長したし、強くなったし、今の私だからどんなことも立ち向かえるんじゃないか。もし万が一失敗に終わっても、一度みたことのある景色だから何をどうすればいいのかもわかっている。だからまたやり直ししてみたい。あの頃とは状況も違うし…。そう思い、治りかけの状態で息子との新たな生活も平行し、約2年弱の間自分自身と真正面から向き合う日々を送った。  
 実の所、神田橋先生への受診でも本当のことは全部言えてはいない。それでも、確実に先生の診察を受けたことで、私は自身をとり戻していったし、その度にヒントや知恵をたくさん教えていただいた。だからこそ今現在の私が在るようなものなのだ。先生がいらっしゃるから息子との生活もやり直せる。そう考えてもいたからだったのだけれど、全てがうまくいったワケでもなかった。

 2年弱の間に何かのアクシデントがある度に私は壊れかけた。勝手に期待していたことを裏切られたと感じた時の喪失感から怒りに震えたりすることが原因だ。それでも、壊れかけることで、まるで自分の中にある異物を吐き出すかのように悪魔祓いをしている雰囲気も醸し出しながら自身が統合しいくのだった。喪失していくものが大きければ大きいほど、それは大きな異物として吐き出された。それらはまるで獣を対峙された気持ちにもなった。どこからこんなうめき声がでてくるのかわからない声と共に吐き出される〝何か〟。そして、その度に身体の力が抜け、寝込むといったことを何度か繰り返した。  
 その中でも、私が一番苦しんだのは8年連れ添ったパートナーと別れることになった時だ。折角、統合しかけていた自分がまた分裂するんじゃないかと思うくらいに身も心もバラバラになりそうだった。眠っている息子を横目に、声を殺して泣きじゃくったそれでも苦しくて苦して、泣きじゃくりながら遠方に住む両親を電話で呼び出した。大人になってそんな出来事はたくさんあったけれど、大人になってはじめて自分のみっともない姿を親にみせることになった。母になきじゃくりながら抱きつき、その時も獣のようなうめき声と共に私の中から〝何か〟が出ていった。

 そんな苦しみの淵でもがいている私が落ちつくまで母はずっと身体をさすってくれた。そんな夜を過ごした翌朝雪が降った。窓からみえる景色は一面の雪景色になっているのを。父が教えてくれた。  私は目が覚めても身体中の力が抜けてしまい布団から起き上がることができなかった。カーテンの隙間からみえた、大きな白い羽毛みたいなボタン雪が降りてくるのを眺めながら大切な人を大切にできなかった自分と大切なものを失ったはずなのに、やっと〝何か〟が満たされたチグハグな自分に少々驚きながら涙がこぼれた。恐らくそれが本当の意味で、30年程あまり分裂していた自身が完全に統合した瞬間だったのだろうと思う。

 その日から嫌われることが全く怖く無くなったのだ。自分でも不思議だった。だからなのか、誰彼かまわず言いたいことはいえるようになった。  そこからの現在に至るまでは、過去のデータを書き換える作業を行っているような日々を送っている。パートナーとお別れすることになり、同時に障害年金も打ち切りになったことで、必然的に再度働かなければ生活が立ち行かない状況になった。それからも怒涛のように様々な試練に見舞われた。試練といっても私からすれば、当り前の事で私が本来望んでいたことだった。

 だからなのか、理不尽な出来事が起こり、怒りに震えることはあっても心身共に壊れるといったことはなくなり、自分の中だけで自己解決させられようにもなった。人を頼るということも上手くできなかったけれども、現状の私では誰かや何かを頼らざるを得ない。自分なりに行動をしてみたもののそれらはうまくいくことがなく、アレヨアレヨという間に私は窮地に立たされることになり、最終的には生活保護を受給することになった。
 もう壁なんていらないのだけれど、過去に自身が積み重ねてきたことの結果がこうなったのだから受け入れるほかない。それでも生き延びられてるのだから…。  平成が幕を閉じ令和へと年号が移り変わる時に私は私をとり戻すことができた。それと同時に失ったものというより捨てたものがたくさんある。でも、それらは、過去の私には必要だったけれど、今現在の私には必要ないだけ。ただそれだけなのだ。だから、全く損をした気持ちではない。

 ムシロ捨てる覚悟や勇気を持たなくても捨てざるを得ない状況におちいったことが私にとって〝治る〟の背中を後押ししてくれたのだろうと思う。 そうそう、そういえば3年前に一度書きかけた自分史のあとがきの最後をこんな言葉で締めくくっていた。  

 〝治る〟にも段階がある
 〝治っていく〟にも過程がある
 〝治る〟の向こう側にある景色は
  無限に無数に広がっている
  誰のものでもない
  私だけの治る景色が みれる日がくるように
  私はただ自分と向き合う日々を
  これからも大切にしていこう と思っている。

 この事柄を綴り3年の月日が経った今、私に観えている景色は想定外すぎる次元を生きている。世間一般からすれば最悪な状況にしかみえないと思うし、本当は口にしたくない黒歴史もいっぱいある。その黒歴史の肩書が実はまた新たに増える予定だ(苦笑)大した金額ではないが生活保護世帯になったことで、自己破産しなければいけない状況になってしまったのだ。それでも、私はめげていない。何故なら、それは過去の清算だと思っているからだ。それでも、ちゃんと払うことで清算したかった。何故かといえば、借金したことは全て自分や息子を治すためのお金だったからだ。それだけが悔やまれる。それでも、私にとってそんな自分を許すことも大切な課題なのかもしれない。完璧主義だったからこそ、完璧な私になる必要もないのだろうから…。

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