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掌編「穴」


 
 人生に失敗はつきもので、だが然しそれが許される社会と、許されない社会があるのだ。私が属するのは、後者の方だった。
 
 地元の人間も滅多に入らない様な森の奥深くまで分け入った私は、やがて尽きた細道の更に先へ、生い茂る枝葉を掻き分けて進んだ。どの枝がどちらから伸びて来るのか、足元に蔓延る根がなんの樹に由来するものだか、さっぱり見当が付かない。蜘蛛の巣もいくつも顔で千切ったし、棘にもあちこち引っ掻かれた。臭い実を立て続けに潰した時は辟易したが、甘美な木々の誘惑にも出くわした。瞳が森に慣れてくると、どうやらこれがけものみちだなと理解した。

 ひょっとすると私は今、不躾に森の住人の生活圏を脅かす不逞な輩として警戒の目を四方から向けられているかも分からない。ちょっとでも隙を見せれば、背後からがぶっと齧られるか、鋭利な爪でがりっとやられてしまうかも分からない。

 どっちも御免被る。こんな辺境の地へ分け入った私だけども、命を捨てようとがむしゃらに歩くのでは決してないのだ。

 社会で許されないミスを犯したと審判が下された時、私は一旦自分の顔を世間の目から引き離す必要が生じてしまった。だから歩いている。ただ忘れ去られるまで息を潜めていなければならない。だから歩いている。
 そこに私の自由意志は存在しない。理不尽という言葉の使いどころとしては、これ程相応しい場面もあるまいと確信的に思う。
 
「・・・もうここらへんでいいか・・・」
 
 けものみちの真っ只中か、只の荒れ地の片隅だか知らないが、四方から図太い枝葉の重なり合って絡まり合って蔓延る中、少し開けた場所に出た私は、足を止めて周囲へ首を回した。

 茂る茂る、鬱蒼として、太陽に乏しく、だがそれ故に、遮る樹木の合間から注がれるものが一層神々しく崇高な光と映る。私にはちょっと高尚に過ぎる場所とも見受けられるのだが、ええい、構うものか、と半ば投げ槍に決めた。平気なフリで歩いてきたが、実は足腰がガクガクとしてもう限界だ。一番履き慣れた靴で出て来たつもりだったが、歩くうちに靴の中で指のどれかが暴れたらしく、なんだか痛い。肉刺でもできたんだろう。足の裏もジンジンとする。

 私は背負う重たい荷物を肩から外し、地面へどさりと落とした。リュックの横から突き出すのは立派なスコップだ。あの、赤と白の縞々のシャツを着た、ニット帽に眼鏡の姿で世界中を飛び回る、間違い探しさせるのがお得意のひょろりとした男を思い浮かべて貰えるだろうか。あれに無駄な肉や脂肪がべったべったくっついた中年の親爺、それが私だ。無論赤色も白色もない。身に纏うのは贅肉と他には、地味なワイシャツだ。

 どこから湧き出した矜持だか、できれば習慣の二文字で片づけたいところだが、スーツにしか着替える事が出来なかった。これじゃないと思いながらもワイシャツに袖を通し、背中に皺のよったグレーの草臥れたスーツを羽織った。ただ、鞄だけを、持ち替えた。妻から勤続三十年の記念にと贈られた革製の上等な手提げ鞄だけは、今日という日の道連れにしてはならんと思った――


 一つ力を籠める度、ザクッ と金属が土に戯れる音がする。動きに慣れてくると、腕の力だけに頼らずスコップを使えるようになってきた。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ、ガッ!

 たまに大きな石にぶつかると、鈍い音と共に力を籠めた腕にびりりと電気が走る。手の平も早々に荒れ地と化して、皮が破け、皺へは土が摺りこまれ、爪の先など汚くて見るに堪えない。と、まじまじ自分の土混じりの爪先を見て、今度は急に、考えを翻した。土にまみれて何が悪い。汗臭い体で何が悪い!これのどこが汚いというんだ。私は

――俺は、本当に浅はかな男だ。


 これこそまさに働く手だ。善悪が蠢くこの人間社会に身を置きながら、文句も言わずに石ころの一つとして陰に日向に働き詰めた者の自慢すべき手だ!

 この地球上で幾千億万の民がおんなじ手をしているんだ!これはまさに尊敬すべき手なのだ!!

 
 他人を巻き添えに自分で自分を勇気づけて、再びスコップを握りしめた。
掘ろう。目標の深さまで。

 春を過ぎて日は随分長くなっている。昼などとうに過ぎたが、まだ日差しはたんとある。吹き出す汗が心地良かった。溜まっていく疲労感がやけくそにも有意義なものに思えた。冷静な己は何処かへ散ってしまったんだ。それもいい。何だかどうでもいい。ただ無心に、ひたすら手を動かすことだけが使命のような気がしていた。没頭することが、楽しかった。


 
 森を深い夜が覆う前に、とうとうスコップを手放した。目の前に、穴が開いた。大の大人が入れる位の、大きな穴が地面に掘れた。覗き込んでも暗くて底が知れない。ここに今から入るのか・・・俺も落ちる処まで落ちたなと思う。しかしふと、自分で掘った穴だから底が知れてる。つまりこれ以上落ちる事はないのかと気が付いた。

「そうか――」

 さっさと潜んで、そして、もう一度這い上がろう。再びおひさまを存分に浴びる事が許される人間になったら、そしたらまた、鞄を持ち換えよう。草臥れたスーツでも構わない。

 俺を、生きよう。

 俺はもう落ちんぞ。そして余談だが、この物語にもオチはない。
 
 


 
 数年後、とある森。

 そこには何者かが埋め忘れたらしき大きな穴が一つあった。森の住民にとっては厄介な代物なのかと思いきや、隠れ家的に使えるぞと秘かなる評判を呼んでいるらしい。しかし広く知られてしまっては容易に使えなくなるからと、ごくごく一部の生き物たちだけが、声を潜め、
「穴場」
 と呼んで重宝しているんだとかいう話である。
 
                             おわり


※以上、オチの無い昨年の作品を思い出して投稿してみました。まさか今年最初の投稿になるとは・・・
ぼちぼちですが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます  
                              いち

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