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「頭上の愛」 1


 少年の鼻から唄が零れる。ふふん、ふん、ふん、と軽快に出る。

「やーまをとーびー、たにをこえー」

 唄に合わせてチラシの裏へ線が踊る。少年の心が弾むほどに線は増やされてゆく。流れるように滑らかに走ったと思うと、いきなり迫力を増す。重なって、ある所は塗り潰されて、ある所は網目模様に似せてある。

「ぼくらのまちへーやってきたー」

「上手よー天才だわー!!」

 テーブルにかじりつく少年の上から声が降って来る。少年は顔をぐいんと持ち上げる。黒い大粒の瞳に母親の笑顔を映して、にっと笑って見せる。鉛筆握るぐうの手に力が入る。小鼻が膨らむ。ふふん、ふん、ふん、と喜びに踊る唄が出る。さあ、そろそろ仕上げに入る。少年がいつもそうするように、どんぐり目玉が二つ生まれて、最後に口を表して。

「ハットリくんがーやってきた!」

 完成である。

「できた!!」

 少年の家の壁は、少年の描いた絵のチラシでそこら中いっぱいである。ここにまた一枚傑作が誕生したらしかった。早速母親に届けに行こうと立ち上がり、駆け出す。足元には積まれた漫画である。ものの数歩で少年の左足は漫画にこんと蹴爪けつまずいて、どてんとこけた。

「・・・・・」

 平伏した少年はそのままごろんと天井を向く。天井には少年の描き出した家だの顔だの山だのがひっきりなしに現れては流れて行く。幻想に満ちた巨大なキャンバスがそこにあった。

 ふふん、ふん、ふん――


          ・


 役員会議は紛糾していた。代表を除く四人の取締役員たちへは事前に何の相談もなく、たった今、代表取締役の独断で新たな役職の発表とそれに伴う人事異動が、一方的に発表されたからである。寝耳に水の取締役員達は、目の色を変えて一斉に抗議を始めた。だが彼等にとり重要なのは、発表の中身云々よりも己の面子メンツであった。代表と云う肩書こそついているものの、五人居る取締役の内の一人の独断で、社の仕組みを好き勝手されたとあっては、下の人間への面目が潰れる。同席中の部下や、議事録作成の為の筆記役、それに外部から参加の監査役員等から侮られては堪ったものじゃないと、四人は揃って顔を赤くし気炎を上げた。

 役員たちの言い分を、代表の時任ときとうも愉快そうな顔で悠々と構えて聞いている。元々大きななりをしているが、近頃の運動不足で太鼓腹は一層目立ち、いささか持て余し気味である。

「何故我々に相談無しで決めるんだ」

「以前から話はしておいたろう、よりスピーディーな意思決定と行動の為だよ」

「社長一人の独断とあっては、株主総会で黙ってないでしょう」

「二週間後に臨時株主総会を開くよ。だがまあ問題なく通るぞ。今日のこの取締役会議での決定を尊重するそうだからな」

「既にそこ迄・・・」

  根回し済みなのである。株主の面々から人望のある社長には容易い事と思われた。

「我々は社長に驚かされる為にここへ来ているんですか」

「一理あるね、面白い意見だ」

しかし監査機関ならうちにもあるでしょう」と言って社外監査役員を見た。

「あっちはあっちでしっかり見張っておいて貰うよ。それでこっちとの意見を纏めてな、社と社員と規律とを円滑に繋ぐ。その為の役員室だ。要するにコーポレートガバナンスの強化だねこれは」

 言って時任も首を動かし、監査の人間と顔を合わせる。片目を瞑って余裕綽々の様子である。

「幾ら何でもこんな重大事項、トップダウンにしても横暴じゃありませんか」

「どちらかというとボトムアップだと思うがね」

 平然と、然し力強く発されたこの一言で、役員たちは一斉に口を噤んだ。

 時任が会議に案件を持ち出した場合、一通り参加者の意見を聞きはするものの、それで己の発表を撤回した事は無い。譲歩さえした試しが無かった。常日頃からその決断力には揺るぎ無い自信を持っており、前例のある無しに構わず大鉈を振るう。社会の秩序だの道理だのは、欠伸の後で十分なのだそうである。他と同じ枠の中で会社を創って、それの一体何が面白いんだと、何処へ顔を出しても、それこそ他社のトップやら場合によっては会長クラスが同席している席上でも遠慮なく、等しく同じ事を言ってのける。

 要はこの男、変人にして傑物である。その上人一倍濃い眉の持ち主で、顔の前面上部から豪快に四方へ伸びて憚らない。その図太い眉の下へ揃う二つの目玉はこれもまたしかとでかい。目力だけで役員の三四人位倒せそうな圧を有している。社内でそんな人間が大鉈を振るうのは余りに力技で、それだけ聞くといかにもワンマン社長のように思われるのだが、実態はもっと堅実に、すこぶる柔軟であった。

 現場主義者の時任は、自らもかつては現場で腕を磨いて来た人間であった。社員が日々、会社に対して真実何を望んでいるか、自分達の未来に何を求めているか、社会へ何を発信してゆきたいのか、その声を常日頃から部署を渡り歩いては自ら拾い集める。誰とでも一対一で話に耳を傾け、時には思いを汲む事が会社の成長と発展、つまりは存続という点から見てどれ程重要な事かを、誰よりも深く、本能で理解していた。それだけに、彼の下す決定事項は殆ど毎回現場の社員に好評を得た。時には発言が豪快の度を越して大雑把の部類に入り、周囲を困惑させることもあるが、それもまた人間らしい、或いは人としての器がそもそも違うからだと受け取られて、時任社長への評価は総じて好意に満ちた物が多かった。狸のような見た目から醸し出す愛嬌のある雰囲気も、高評価に一役買っているのかも知れない。どちらにせよ、会社の実績を積み上げ、業績の底上げにも成功してきたとあって、時任は人望のある代表取締役社長と云って差し支えないだろう。

 そう云う社長の口から、只今の発表が現場の声を反映していると聞かされれば、その真意の程は明らかで無いにしても、役員たちは下手な事を言えなくなる。現場の声を軽んじて見せる事は個々の立場からして全く好ましくない印象を与える事になる。利己主義な面々にとり己の保身は第一である。同席している自分たちの部下の口か、静かに控える書記の口か、或いは、まさかとは思いつつも監査役員の口から――出処はいつだって灰色にされても、真偽の怪しい情報が流出するのは早い。下手に反対意見を唱えて、その為にいつ悪者にされるか知れないと思うと、これ以上反論した処で自身に一ミリもメリットは無いと思われた。役員たちは忽ち態度を軟化させた。

「まあ、現場の声を反映してのことならば、仕方が無いでしょう」

 一人が態度を翻せば、後は容易かった。みんな異口同音に賛成を唱え始めて、結局この発表は、取締役員の全員賛成をもって落着をみた。


 会議の末席で事の成り行きを静かに見守っていた保坂は一人、

(これは大変な事になった)

 と思っていた。保坂は、本来この会議に参加すべき人物の代理として末席に参加している身であり、会議がどれだけ白熱しようとも、イスとテーブルが蹴散らかされる様な事態が起ころうとも、ひたすら黙って山場の過ぎるのを待つ身であった。最も、イスとテーブルが宙を舞う事態ともなれば腰位浮かした方が良さそうであるけれども、兎に角どちらにしたって発言権は無いに等しい。こう打ち明けてみると、そう云う代理が会社の重役のみが列席する取締役員会議に参加していること自体、特殊であると言わざるを得ない。だが社長の時任がそれを容認しているものだから、他の役員も今更何も言わないのだった。加えて彼等は、こんな重役会議を毎回当然の如くに欠席して、代わりの人間を立てて済ましている人物を、密かに変人扱いしていた。そう云う妙な人間が今以上に増えて場を搔き乱されるのよりも、何の力も与えられていない代理の人間が大人しく座ってくれているだけの方が、自分達にとり何倍も都合が良いと考えていたのだった。

 保坂は大変な事と認識しつつも、顔には全く心の機微を現さず、与えられたパイプ椅子へ行儀よく座って居た。実のところ、時任の事前相談無しの発表を聞かされて取締役員たちが一斉に騒ぎ立て始めた時も、彼等を観察する程の余裕を持っていた。会議の行方を、今度の場合も時任の一人勝ちで終えるのか、それとも役員の何某かが一矢報いる程の気概を見せるのか、自分にしたって社員の一人でありながら、まるで己の立場に頓着しないで眺め見ていたのだ。時任が「一理ある」と返した時は、少し風が吹くかと思って内心前のめりに耳目を傾けたのであるが、結局何事もなく会議は幕を閉じた。

 嵐を期待しているのではない。ただ物事がどう動くかを、見守っているだけなのである。保坂は自分の立場を、決して表立って活躍する様な立場にはなれない物足りない性格を、別段損だと思った事は無かった。またそうかと云って上の人間に取り入って重宝して貰おうとか云う様な欲も持たなかった。適材適所。静かなる保坂にとって、どれ程大きなうねりの最中であろうと、乾ききった丘の続く砂漠の中であろうと、事が順調に運ばれてゆく、それこそが何より重要なのであった。そうしてその只中に在っても決して流されない柔軟さこそが、彼の真骨頂なのである。

 今回も時任の独壇場となった会議を終えて、役員やら部下らは軒並み立ち去った。広い会議室には、最後に保坂が一人残っている。彼はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、早速電話をかけた。コール音数回で繋がった。

「保坂です。たった今会議が終了しました」

「はい―ええそうです。それで―」

 と、保坂はここで一旦言葉を切って息を吸いこんだ。

「あなたはクビになりましたよ。―はは、笑ってなんかいません―はい、いえ私は何も、社長が―はい、辞令の画像でもお送りしましょうか。そうですか。―はい、そう云う手筈となるようです―では詳細は後程、メールでよろしいですか―ですから、笑ってなんかいません」

 少し調戯からかう気を起こして、異動と説明すべき処をまるで落ち度があったかのように伝えたら、果たして相手の反応が予想通りで、保坂は白い歯を零していた。

「イスですか?分かりました。移動させておきます。―はい。では、失礼します」

 保坂は顔ににこやかな笑みを浮かべたまま通話を終えると、スマホのトップ画面に映し出された娘の写真を満足そうに眺め見た。先月ようやく三歳になったばかりの愛らしい娘である。忙しい身の彼にとって、愛娘の写真や動画は仕事中の癒しであり、また同時に働く原動力となっている。


 只今の電話相手こそ、今日の議題の中心人物である。役員会議へ姿を見せる事はほぼ無いといってよく、今日も本人不在のまま異動が発表なされたが、それを歯牙にもかけないで淡々として居られる保坂の上司である。会社と現場と自由奔放な直属の上司とを繋ぐのは並大抵の人間では務まらない。保坂には保坂なり、自分にしか到底成立させられない社内バランスが在るとの自負があった。スマートフォンを懐へ仕舞う時には既に頬を引き締めて、早速行動を開始すべく動き出していた。

 頭の中が常から明瞭で、過度の期待を相手へも自分へも寄せる事をせず、一を一とし、十を十として誇張や忖度なしに計る事が出来る。それがこの保坂と云う男の特技である。

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過去に連載致しました「頭上の愛」 長編小説が読みたいと言って下さる優しいあなたの為に再登場です。 改稿には至っておりません故、価格を下げて…

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