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【エッセイ】 見る、ということ。

忘れられない、朝の風景がある。

高校生のとき、私は電車とバスを乗り継ぎ、少し遠くの学校まで通っていた。
途中、JRから私鉄に乗り換えるのだが、その二つの駅の距離は徒歩十分位あった。

ごみごみとした細く短い商店街を抜けてゆく。
国道の近くだったので、鼻の穴が黒くなるほど、当時の空気は汚れていた。
毎朝私は、その短い距離を歩いていた。


不思議なことに、今、目を瞑って考えてみても、その商店街にどんなお店があったか、ほとんど思い出すことができない。

私が今でも覚えているのは、ただ一軒だけである。

その店は、古い靴屋だった。とても小さく、前を通るだけで、店の奥まで見えてしまう程だった。

店内は薄暗く、品揃えもパッとしない。高校生の私には欲しい靴は一足も無かった。

こんな汚いお店に、誰が買いに来るのだろう、よく潰れないなと、いつも思っていた。


毎朝店の前には、主人と思われるおじいさんがいた。
とても背が高く、八十代位だろうか、腰が曲がっていた。薄茶の長いエプロンをかけ、開店の準備をしていた。

私が通るのは、とても早い時間なので、他のほとんどの店は、シャッターが下りていた。

たくさんの通勤、通学する人々の群れの中で、私はきっと他の人と同じような、無気力な顔をしていたのだと思う。
その証拠に、当たり前のことに、ずいぶん長い間気が付かなかった。

その店の主人は、何年前から靴屋を営んでいたのだろうか。毎朝必ず雑巾を持ち、ビニール製の張り出した屋根を、とても丁寧に拭いていた。

雨が降っているときは、商品にきちんと覆いを被せていたし、雑巾で拭けるサンダル等は、一つ一つ拭いている姿を、よく見かけた。

私は毎朝見ていた筈である。しかし、本当には「見て」いなかった。汚くて古臭いと、ちらっと見ただけで判断してしまったのである。


ある朝、私は突然そのことに気が付いた。
何がきっかけだったのだろう。よく分からなかった。

私は、自分が恥ずかしくて堪らなくなった。

そして、もっと物事が「見える」人になりたい、と思った。


高校を卒業してから、私はその商店街を一度も通っていない。
電車の中から入り口は眺めることが出来るが、ずいぶん昔とは変わっているようである。

現在の私は、物事が見えていると言えるだろうか。

そう考える時に今でも思い出すのは、朝の商店街を黙々と歩く人々の靴音と、背が高く、腰の曲がったおじいさんの姿である。

      (2004年 3月11日)

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