「こどものわたしが この気持ちを おぼえている」(ながしまひろみ著「やさしく、つよく、おもしろく。」より)
私は小さい頃、手の掛からないこどもだった。親は二つ上の姉の面倒を見るのに忙しく、いつも放っておかれたそうだ。
静かで存在を忘れる、
いつもベビーベッドで寝かされてばかりだったので、抱っこされるのがヘタで、ぴーん、と、こわばっていた、
うどんをひとりで食べさせられ、ツルツルすべるので疲れ、いつの間にか手づかみで食べていた、
有料道路(一方通行)のドライブインに、置いて行かれかけた…
などなど、笑い話のように何度も語られていた。
別にネグレクトされていたわけではなく、私もそれを「自分エピソード」として、人に話したりしていた。
物心ついたときには、その「手が掛からない」ということを、自分の中で一つの“長所”だと捉えて、自慢にさえ思っていたような気がする。
運動会などで姉はすぐに見つけられるのに、私は見つけられない、ともよく言われた。
私は大勢の中のひとりなんだなと、いつも思っていた。
大人になってから気付いた。
手が掛からなかったり、一歩引いて譲ったりすることで、私は自分の居場所が欲しかったのだ。
注射も、いつも泣かなかった。幼稚園のときケガをして目の上を縫った時も、太ももをつねって痛みをこらえ、泣かなかった。
何かを取り合うより、ゆずってしまうことも多かった。
でも私は、本当にがまん強く、欲が無かったわけではない。
ただ、「がまん強いね」「ゆずってえらいね」って、褒められたかったのだと思う。
私はここにいるよ、って言いたかったのだ、きっと。赤ちゃんのときは知らないけれど。
そして大人になって、親になって、ながしまひろみさんのマンガ
「やさしく、つよく、おもしろく。」を読んだ。
………集中して読めない。
ページをめくるごとに、自分の子供の頃の記憶に引っかかり、そこから過去の回想や現在の思いが、心の中で紡がれていく。
無意識のうちに目でページをたどっていて、はっとしてまた少し戻って読む、の繰り返しだった。
「こどものわたしが この気持ちを おぼえている」
これは、この本の帯に書かれている文章だ。
このマンガは、糸井重里さんのことばを発想の糸口にして、ながしまひろみさんが自由に広げられた、ゆきちゃんという小さな女の子とそのおかあさんの物語だ。
一つのエピソードごとに、糸井さんの著作から引用されたり、書き下ろされた言葉が添えられている。詩のような、美しい本だ。
物語は、ゆきちゃんが小学校に入学するところから始まる。同時におかあさんも新しい職場になり、2人の不安な気持ちや、新しい朝の様子が描かれている。
それから、学校のことや友達のこと、おかあさんのこと…など、日常のいろいろな出来事が描かれる。
ながしまさんのマンガには、いつも、とてもきれいな空気が流れているような気がする。気がする、じゃなくて本当に流れていて、なんなら匂いまでしてくる。
おかあさんとふたりで食べている、カレーライスの匂い。
学校の、湿った机の匂い。
夏の終わりの、草いきれ。
雪の朝の、空気の匂い。
夕方の、どこかの家の晩御飯の匂い。
誰もいない、静かな夜の匂い。
そして、繊細な線や澄んだ色が、とても丁寧に描かれている。
ゆきちゃんが、椅子に座って電話をしていて、足をぶらぶらさせている様子、パジャマの裾をズボンにしまっている、もこっとしたおなか。
おかあさんが独りで歩く、暗い夜の闇も、やさしい線で描かれているように感じる。
登場人物の目は、点で描かれることが多いのに、とても表情豊かだ。身体の線や風景、塗られている色全てで、感情が表現されているからかもしれない。
最初に書いた私のエピソードは、このマンガの主人公のゆきちゃんやおかあさんのおはなしとは、全然違うものだ。境遇だってちがうのに、子供の頃や親になってからの思いが、読んでいて少しずつ呼び起こされていった。
きっとこの本は私だけじゃなくて、読んだ人それぞれの大切な思い出のような本なのだと思う。
思い出は楽しいものばかりじゃないから、
呼び起こされてしまった記憶が、心をきゅっと掴み、少し息が苦しくなったりもする。
それでもやっぱり、何回も読んでしまう。
そして子供時代に戻って、もう一度悲しんだり、喜んだり、気持ちをかき乱されたりして、親になってからの気持ちも重なって。
それから少しだけ足取りが軽くなって、また歩き出せるようになる、そんな本だと思う。
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