「ふわふわ、ではありません、フワワフワーフです。」(第9話 パンの におい)
9 パンの におい
十月になり、秋の涼しい風が、感じられるようになりました。
特に出かける用事のなかった日曜日。イトは自分の部屋の勉強机に座って、ワーフにもらった、クリスマスプレゼントのキーホルダーをながめていました。
ワーフの毛で作られていて、ランドセルに付けていたものです。ワーフがいなくなってからは、目にはいるとつらくなるので、机の引き出しにしまっていて、見るのは久しぶりでした。
真珠色で半透明の毛皮は、よごれても洗えばすぐにきれいになるので、いまだにもらったときのまま、美しく見えました。
イトは、勉強机の棚に置かれた、ワーフが好きだったアザラシの貯金箱に手をのばしました。
筒状の胴体は透明で、コインを入れると、くるくるらせん状にすべり落ち、百円は百円のスペースへ、十円は十円のスペースへ、と、途中で分かれて落ちていくので、ワーフが何度も入れ直してながめていたのを思い出しました。
イトは、中からコインを取りだし、百円を上から入れました。
シューッ、カチャン!
あっという間に、すべり落ちました。
こんどは、十円を入れてみました。
シューッ、カチャン!
何度かくりかえして、イトは、落ちていくところをぼんやりながめていました。すると…
シューッ…
…
「…あれ?」
シューッ、とすべる音がして、カチャン!とコインが落ちるはずなのに、カチャンという音が、いつの間にかしないのです。
「なんでだろう?」
イトはもう一度、百円玉を取り出して、上から入れてみました。
シューッ…
…
…
「なんで?…え?なんで?」
イトは、貯金箱を持ち上げて、中をのぞき込んでみました。そのとき、どこからか良い匂いがしてきたのに気がつきました。
「なんか、おいしそうな…パン?」
パンを焼いているような、とても香ばしいにおいでした。
顔をあげると、壁にはった、図工室で見つけた絵が目に入りました。低学年の頃くらいに描いたのでしょうか。イトは、どうしても思い出せませんでした。
野原に煙突のついた家が建っていて、犬がいて、まわりには花がたくさん描かれています。よく見てみると、鉛筆で下書きがしてあり、クレヨンや絵の具で、ていねいに色が塗られていました。
「この絵、ワーフが気になるって言ってたけどなあ…」
パンのにおいが強くなってきました。
「ワーフ、パンが大好きだったな…ワーフ、ワーフ、ねえ、会いたいよう」
イトの目に涙があふれてきて、水の中にいるように、まわりがぼんやりとかすみました。パンのにおいがさらに強くなってきて、イトは、キーホルダーをにぎりしめました。
イトの涙は目からこぼれ落ち、つぎの瞬間、目の前がゆれた気がしました。
そして、からだが上にひっぱられるような感覚がしたかと思ったら、もう、キラキラ光る小石がしきつめられた小道に、イトは立っていたのでした。
***
あまりに突然の出来事に、イトはぼうぜんと立ちつくしました。
部屋は消え失せ、オレンジ色の朝焼けの空が広がる、丘の上に立っていました。
眼下にはいくつかの小さい丘と、その谷間に可愛らしい家々が並んでいるのが見えました。イトの父方のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる、イギリスの田舎の風景にどこか似ているようでした。
「だって…え…今、部屋にいたのに…なんで…?」
イトの家の近くには、こんな場所はありません。それどころか、日本の景色にもみえませんでした。
「ここ…どこ?」
そのとき後ろから、ガチャン、ガチャン、という、機械のような音が聞こえていることに気が付きました。イトが振り返ると、自分が立っている小道が、少し先の林のほうまで続いているのが分かりました。
「どうしよう…」
イトは迷いましたが、この場所にいつまでも立っていても仕方ない、と思い、音のするほうへ行ってみることにしました。普段はとても怖がりで慎重なイトでしたが、このときはなぜか怖いとか、心細いという感覚はありませんでした。
ただただ、心が浮き立つような、ワクワクした気持ちでした。
握りしめていたワーフの毛皮のキーホルダーは、無くすといけないので、はいていたキュロットの腰のベルトひもに付けました。
小道には、色とりどりの透き通った小石が敷き詰められ、光に反射して夢のように輝いて見えました。歩くたびにシャリシャリと鳴る音は、きれいな鈴の音のようでした。
イトは自分の部屋にいたままの格好だったので、靴は履いていませんでしたが、不思議と痛くなく、身体もフワフワ、軽い感じがしていました。
しばらく、こんもりとした低い木が点々と生えている、林が続きました。イトは、ガチャン、ガチャンという音が次第に大きくなっているのと同時に、焼きたてのパンのにおいも、ただよってきているのに気が付きました。
「あ…あれ何だろう…」
やがて、林の中の、少し開けた場所にたどり着きました。そしてそこには、青色の屋根の、大きな三階建てくらいの建物が建っていました。
石造りの壁には丸や四角、三角や六角形など、様々な形や大きさの窓がたくさんついていました。イトの顔くらいのものから、人がそのまま通れるようなサイズのものまでありました。
屋根には煙突があり、そこから煙が出ているのですが、不思議なことに七色に常に変化していて、今、あわい紫かと思ったら、もう青くなっている、という具合でした。
「誰かいるかな…?」
イトはとりあえずこの家のひとに、ここはどこなのか聞いてみるしかない、と思いました。
「玄関は…」
イトは裏にまわってみましたが、入り口らしいドアなどは見当たらず、あるのはやはり、たくさんの窓だけでした。
家の裏には小川が流れていて、大きな水車がありました。こけむした石の土台にはツタがからまり、そのまわりには色とりどりの花が咲き乱れていました。
空気は澄み、心地よい小川の流れる音が辺りに響いていました。
「どうしよう…」
イトはどうしていいのか、分からなくなってしまいました。
その時です。
「わあ!!イトちゃん、イトちゃんだよね?!」
足元から声がしました。
「…あっ!え?!え?」
イトを見上げて、ちぎれるようにしっぽを振っていたのは、小さなトイプードルでした。
「ボク、ミルクだよ!…もしかして覚えてないの?」
「…えっ?!リーちゃんとこのミルク?!…もちろん覚えてるけど…そうじゃなくて…」
イトの耳には「ワンワン!」という鳴き声も聞こえていましたが、どうしてか、しゃべっている意味が分かるのでした。
「ねえ、なでてよ!なでて!!」
ミルクはひっくり返ってお腹を出しました。イトはびっくりしつつ、しゃがんでなでてあげました。
「あれ、色が…」
しゃがんだ時、腰のベルトひもにつけてあったワーフのキーホルダーが見えたのですが、ミルクと同じ茶色に変わっていました。
「あっ、そうだ!こっち、こっち!」
ミルクは突然くるんと立ち上がると、走り出しました。イトもあわてて立ち上がり、追いかけました。ミルクはワンワンほえながら、家のまわりを回り始めました。
ミルクの「ワンワン」は、イトには、
「出てきてーっ!出てきてったら!はーやーくーっつ!!」
という意味に聞こえました。
五周くらいしても止まらないので、イトは息が切れてしまい、立ち止まりました。
ゼイゼイいいながら、ふと目の前の五角形の小窓に目をやると、そこから二つの目がのぞいているのが見えました。
「わっ!!」
びっくりして、イトは声をあげました。するとその窓がパカッとこちら側に開き、なにか丸っこいものがイトに飛び付いてきました。
それはバスケットボールより少し大きい位の、真珠色の毛皮につつまれた…
「…ワーフ!!!」
「イト!イト!!あいたかったよー!!!」
ワーフは嬉しさのあまり、わーわー泣いていました。イトも一緒に泣きながら、ワーフの毛皮に顔をうずめました。
興奮したワーフの毛皮は、透き通った毛の一本一本が立ち上がり、さざ波のように揺れていて、美しい湖面のようでした。その上をイトの涙が、コロコロと、いく粒も転がり落ちていきました。
しばらく二人ともそのままでしたが、少し落ち着いたイトが話しかけました。
「ワーフったら、なんで急にいなくなっちゃったの?すごーく心配したんだよ!」
「ごめんね…」
ワーフは小さな手で、涙を拭きながら言いました。
「ボク、いつのまにか、こっちにかえってきちゃってて、どうやってもどればいいか、わかんなくなっちゃって…でもイトは、ここにどうやってきたの?」
「どうやって、って…あれ、そういえば、私もどうやって来たんだろう…。今、ミルクが来て…あれ?ミルク?どこ?」
「ああそっか。きっと、めがさめたんだね」
「目が覚めた?」
「うん。イトのせかいのイヌやネコは、ねてるあいだだけ、こっちに、こられるみたいなんだ」
「えっ?そうなの?!じゃあ、ミルクはずっと、ワーフに会ってたってこと?」
「ときどき、きてたみたい!なんかいか、あったことあるよ!でもミルクくん、すきなところを、あるきまわってることがおおいから…」
そのとき、家の中から大きな声がしました。
「おーい、ワーフ!カゴがいっぱいになってるぞー」
「あ!そっか、わすれてた!ごめん、パパ!すぐいくね!」
「パパ?ワーフの?」
「うん、そうなんだ!イト、なかにはいってよ!パパとママをしょうかいするね!」
そう言うとワーフは、さっき出てきた小さな窓に、一人で飛び込んで行ってしまいました。
イトは急いで入り口を探しました。しかし窓はたくさんあるのですが、ドアがどうしても見つかりませんでした。
結局家のまわりを二周くらいして、正面にまわったとき、突然二階の高さにある、六角形の大きな窓が開き、中から丸っこいものが飛び出してきて、イトの目の前にふわりと着地しました。
「こんにちは、はじめまして!フワワフ村へようこそ!あなたが夏野イトさんですね。私はワーフの父親の、フワワフワークです。ふ、の次に、わ、が二つで、それからふ、で、ワーク、フワワフワークです」
ワーフのお父さんは、雪だるまをさかさまにしたような毛皮から細い手足が出ていて、ワーフにそっくりでした。ただ、ワーフの二倍くらいの大きさで、毛皮の色もワーフと違い、パステルカラーの水色でした。真っ白い帽子と、エプロンをつけていました。
「ワーフが本当にお世話になって、感謝してもしきれないくらいです。いやあ、お会いできて良かった!」
ワーフのお父さんは、イトに握手を求めました。握手をすると、イトの手には、白くてキラキラした、粉のようなものが残りました。そして、ワーフの時とおなじように、すぐに消えていきました。
「ありがとうございます!あの…」
「いやね、ワーフがいきなりいなくなったもんで、あのときの大騒ぎときたら!妻は毎日そこらじゅうを探しまわって、でも見つからなくて…」
「私、学校の図工室で…」
「いやあ、小さかったから、まだ行くはずがないと思ってたんですよ。でも、屋根裏から例の絵が出てきてね」
「あの…」
「まあ、そうとわかったら私たちとしても、待つことしかできないんですけどね。だって早めに行っただけ、ということになるでしょう?」
「早めに、って?」
「とにかく、どうやら良い人たちに会えたみたいだから、そのままお願いしようか、ということになって…」
「ほら!またあなたったら、ひとの話を聞かずに、自分の話ばっかり!」
そのとき、近くの丸い小窓がひらいて、中からもうひとり、飛び出してきました。
ワーフのお父さんより、ひとまわりくらい小さく、パステルカラーの黄色い毛皮に包まれていました。お父さんとおそろいの白い帽子とエプロンを掛けて、ニコニコしながら、イトの前に、ふわりと降り立ちました。
「はじめまして、ワーフの母の、フワワフワーネです」
「はじめまして…」
イトはいろんなことがいっぺんに起こりすぎて、もう、驚くことすら忘れていました。
「イトさんね。ワーフがほんっとうにお世話になって…!なんてお礼を言ったら良いか、わからないくらいよ。来てくれて嬉しいわ!さ、さ、そんなところにいつまでも立ってないで、中に入ってちょうだい!」
「はい、あ、でも、どこが入り口かわからなくて…」
「あらそうね、分かりづらいわよね!入り口、ほんとはどの窓でも良いんだけど、一応正式な玄関はあそこよ!」
ワーフのお母さんは、さっき出てきた六角形の大きな窓を指差しました。
「ささ、遠慮しないでね!」
お母さんはふわりと飛び立つと、近くの三角形の小窓から、中に入っていきました。
するとお父さんも、
「いやあ、イトちゃんに来てもらえるなんて、本当に嬉しいなあ!」
と言いながら、ふわりと飛んで、中に入ってしまいました。
「でも、あの…あそこまで、どうやって登れば…」
イトは言いましたが、ワーフの家族はみんなあわてんぼうみたいで、そのままひとり、取り残されてしまいました。
すると今度はすぐに、ワーフが飛び出してきました。
「イト、ごめんね!イトはとべないんだってこと、すっかりわすれてた…!あ、でもミルクたちも、ここではよくとんでるから、もしかしたら、とべるのかなあ?ちょっと、やってみて!」
「え?飛ぶって、どうやって?」
「んーと…かるく、ジャンプしてみるとか?」
イトは、ちょっと飛んでみました。なんだか、体が軽くなったような感覚がありました。
「あれ、なんか…ふわっとしたかも…!」
「ほんと?じゃ、もっとやってみて!」
イトは、ワーフが言う通りにもう一度、体をのびあがらせるようにしながら、片足で軽く地面をけってみました。
「あ、あ、あああ!」
イトはゆっくり、浮かび上がりました。
「とんだ、とんだ!!ワーフ、飛んだよ!!」
「わー!やっぱりとべたね!じゃあ、げんかんからはいって!」
イトはふらふらしながらでしたが、なんとか飛んで、六角形の窓から入りました。
「…わあ!すごい!」
入ったとたん、イトは家の中の様子に目をうばわれました。
三階建てくらいだと思っていたレンガ作りの家は、中は吹き抜けになっていました。どうやら家ではなく工場のようで、その真ん中には、ピカピカに磨かれた、真鍮でできた大きな機械がすえられていました。
むせかえるくらい香ばしい、パンを焼くにおいの中、大小いくつもの歯車が、ガチャガチャと音を立てて動いていました。遠くまで聞こえていたのは、この機械の音だったのでした。
中央には、天井から下の方までのびる、らせん状の大きな滑り台のようなものがついていました。その上をくるくると、ひっきりなしに滑り落ちるものをみて、イトはここが、パン工場なのだと分かりました。
その滑り台には、いくつもの穴が等間隔に開けられていました。よく見てみると、色々な種類のパンが、種類別にその穴に落ちていき、下に置かれているかごに、ポン、と入っていました。
天井近くにある筒のようなスペースにパンの釜があるようで、そのすぐ上には煙突の穴があり、パンを焼くときに出るらしい、七色の煙が吸い込まれていました。
「何かこれ、見たことあるような…」
「そうそう!そうなの!イトのアザラシのちょきんばこに、にてるでしょ?」
ワーフがとなりに浮かびながら言いました。
「ああ!そっかあ!だからあの貯金箱、ワーフは好きだったんだね!」
「うん、そうみたい!ボク、こっちのせかいのこと、なんでだか、ほとんどわすれちゃってたんだけど、どこかできっと、おぼえてたんだねえ。あさはやくおきて、パンこうじょうを、おてつだいするのがだいすきだから、あさやけとか、ゆうやけのそらが、すきだったのかも」
そう言われてみれば、ほかにも思い当たることがありました。
キラキラしたものや、パンのにおいがとても好きだったこと。牧場で作った木のお家に、色々な形の窓を描いたり、カラフルなビー玉を敷き詰めたこと。
看板に書いた変わった字は、こちらの世界の字だったようでした。
クリスマスツリーの、家の形のオーナメントは青い屋根で、このパン工場にそっくりでした。
その時、
ボーン、ボーン、
という音が聞こえてきました。じいじとばあばの家の古時計にそっくりなその音は、パンが全て焼き上がった合図でした。
ワーフのお母さんが、目の前に飛んできました。
「イトちゃん、うちで一緒に朝ごはん食べましょう。ワーフ、先に行って、案内してあげてね」
「うん!イト、こっちだよ!」
ワーフは大きな機械の上を飛び、ひし形のカラフルな天窓から、屋根の上に飛び出しました。イトも後に続きました。
外に出たとたん、煙突からの七色の煙が、イトのからだをやさしく包みました。
(第10話「フワワフ村」へつづく)
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