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clarity=透明感とか明瞭さのおはなし

ぼくは笑いのツボが人と違うのか、変なところで笑いだしてしまう。そのせいなのか、怒らなくていいところや悲しまなくていいところで泣き喚く。
僕の周りには優しいひとが多い。故意に悪意を持っていじめてやろうとか、傷つけてやろうなんていう人などいない。だって、本当に相手を傷つけたいなら、本人に直接言えばいい。ひとのいないところでぐちぐちいっているひともいるけど、「言ってもせんなきことをだらだらとはきだしてもやもやしている気持ちを解消する」っていうことが目的だから、吐き出すことをただ聞いていれば時間は過ぎていく。

だからぼくはどこでカチンと来るのかがよくわかっていない。やましいこと、心当たりがあるからカチンとくるにちがいないと実用書はアドバイスとしてくれている。そうなのかもしれないけど腑に落ちない。そうでなきゃ、相手に聞いてもらいたいことが隠れているにちがいない。誰にもわかってもらえないことは寂しい。カチンのうしろにはクスンがいる。
カチンときたよって言葉にはしないかもしれないけど態度に出てしまう。巻き起こった感情を反射的に出すのはかっこ悪い。だから感情を押し込めるようになっていた。こうしてしばらくしたらぼくは言葉がでてこなくなって、頭が真っ白になって身動きができなくなった。

そんなとき、この文章に出会ったんだ。

感情を良いものと良くないものに分ける考え方が、私は好きじゃなくて。価値観が変わったこともいろいろあるけれども、最初の頃からずっと変わっていないのはそれです。私にとって感情って重さで、ネガティブと括られるような気持ちも、ポジティブと括られるような気持ちも、重さで言ったら同じ。感じないほうが良いとか、もっと感じるべきとか、欲するべきとか、それこそ先入観だし、ハッピーじゃない。何か足りていないって勘違いにつながるような捉え方だなって思っていて。自然現象じゃないですか、感情って。肌を切ったら血が出る、水を飲んだらトイレに行くみたいな。これは嫌だ、これは良いって分けるものではないって、デビューからずっと歌詞にしていることです。

感情は重さだよ、自然現象だよという表現に目からぽろぽろ鱗がおちた。
でもね、自然現象だから全部垂れ流していいよってことじゃない。もっとクールなことだ。どの感情にも同じ重みがあるから、どれともしっかりむきあうんだよという決意表明なんだ。感情をしっかりと扱うためには、クールな理性が必要だ。彼女のように感情を重さだ、と言語化できるのはとてもカッコ良いしクールだ。

ぼくはこんなにカッコよくはいられない。
感情は、妖怪みたいに姿形も変幻自在な得体の知れないもので、どこかから刺激をうけたらぴゅんぴゅん飛び出してくるやっかいな生き物だ。
この生き物たちはバカみたいに正直だけど、かしこくはない。お人好しでよく騙される一方で、したたかなときもあって、嘘もつくし、頑固で全然僕の言うことに耳を傾けやしない。味方を敵だと思い込んで攻撃したり、敵を味方だと錯覚することもあるし、目を話すと何をするかわからない。でも感情ってやつには理性がないのだから仕方ない。だけど、感情はエネルギーの塊だ。なくなったら僕は生きていけない。
理性はこのへんな生き物の生態を律儀に研究してくれる。いつ餌をあげたらいいのかとか、こういうことばがすきなんだとか、とかいろいろね。僕にこれを与えておけば落ち着くよって教えてくれる。とっても仕事熱心なので助かっている。

僕は心だ。
理性が持ってくる結果をもとにして、感情の居場所をどんどん整えていくのが僕の仕事だ。感情が正直でいるときよりもふわふわと居心地が良くなるように、掃除して整頓する。すると感情は素直になっていく。僕の透明度がどんどん上がっていく。つまり、感情という生き物を理性の力を借りて素直な状態に保ちつづけることが心の仕事だ。しかしここでもまた問題が出てくる。居心地がいいままだと、強度が弱い。外からの刺激にすぐ傷つけられてしまう。だから、僕は毎日身体を鍛えている。どんな刺激にも耐えられるように。まあ、これが実に大変なんだけど、身体を鍛えるとすぐ結果にでるから楽しいといえば楽しいかな。

clarity=透明感とか明瞭さ。心と理性と感情の関係性。
理性と感情で作り上げた透明度を、心を鍛えて磨き上げる。

その仕事に終わりはないけれど、ずっと僕は僕を守り続ける。





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