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もやもや考える

バイク飛ばす国道は雨すぶ濡れの顔が体が闇にめり込む

定年前まで980ccのバイクであちこち走った。何年か前からは日本一周一筆書きを目指し、距離を稼ぐために朝から夜まで海岸線をひたすら走った。いつも片方は海、片方は山、どんなに有名な観光地があっても基本は立ち寄らないみたいな走り方で。
冒頭の短歌はその頃の歌。暗い夜の雨の中、海岸沿いの道を飛ばす。その時の、まるで闇の中に身体が減り込んでいくような感覚を書いてみた。


最近、身体とか身体感覚とか、そんなことを歌ってみようと思い始めた。

生きるとは群青の思惟 はつ夏の海からの風身に受けて立つ
朝の雨 夢に重ねた唇のかたちを探している雨だれ

雑誌の投稿欄に応募してみたが、どれも当然のように採られない。きっと独りよがりで共感が得られない歌なのだろう。ただ、冒頭の「バイク」の歌は特選に採ってもらった。「二句切れの後の「すぶ濡れの顔が体が」闇に突き進んでいくスピード感が素晴らしい。雨を闇を動きを、身体で摑み取って表現してみせた」という評。

人に「響く」歌ってどういうもの?それがいまだにわからない。
次の歌はひょっとしたらまあまあなのかもしれないと思うがどうだろう。

とりとめもなくなつかしい手触りのたとへば耳たぶのやうだ 鬱は

唐突に話が変わるが、この4月から人の心に響く言葉とその理由を探したいと言う5人の女子生徒を「探究」という週一回の授業で担当している。その点では一致してスタートした5人だが、漠然と行き着く先の見えない探求である。

探究という授業なので迷うことが大事と思い、口を挟まずに彼女らの議論を聞いていると、言葉を収集しながら、いつしか恋愛の話になり、諸々の作家の恋文・ラブレターを調べ出した。「えぇ、気持ち悪い」などと言いながら。

それはそれで面白いと思っていたが、そのうちにAIに話が進み、チャットGPTに恋文は書けるか?と、チャットGPTにラブレターを書かせてみたり、LINEのチャット機能を使って恋の悩みを試みに相談してみたりしていた。

それはそれで方向性としては面白いと思って聞いていたが、次の時間、「振り出しに戻ります」と言って、今度は「映画の言葉を採り上げたい」と言い、Amazonプライムで『余命10年』という映画を観ながら、シーンごとにセリフと人物の行動・表情、場面構成や音楽との関連をメモし始めた。

それは映像効果の領域にも入っていかなければならず難しいだろうなと思っていると、今度は予告編がなぜ人を惹きつけるのかをいろんな映画の予告編を調べて、効果的なプレゼンのあり方を考えてみたいと言い出した。

それはそれでアリかもしれない、その成果として実際に何かを題材に取って実際にプレゼンを作ってみても面白いかも、と思って次の授業に出たら、今度は「名前について考えてみたくなった」と言い出した。

全く女子高生とはネコの目のようだ。彼女らの迷走状態に、僕は瞑想状態。
ダジャレを言っている場合ではないが、「迷える子羊たち、そろそろ方向性を絞ろうか」とボヤいてはみたが・・。


先日、NHKのクローズアップ現代でネガティブケイパビリティ(答えのない事態に耐える力)が大切であるということをやっていた。常に効率を考え答えを求めていく在り方に対し、もやもや力が見直されていると言う。AI隆盛の時代に、それに対抗するアンチテーゼとして浮上してきたのかもしれない。
でもそうすると(とてもそうは思えないが)、彼女たちも、もやもやと立ち向かっているのかもしれず、それを黙ってみている僕も深いもやもやを抱える貴重な時間を過ごしているのかもしれない。


別に答えを出したいわけではないが、彼女たちが人の心に響く言葉とその理由を探したいということのベースにあるのは、関係性ということかなあとも思ってみたりする。言葉は常に関係性の中で成立する

作家の恋文を彼女らが「気持ち悪い」と言うのも、置かれた状況や相互の関係性が見えないことに由来するのだろうし、AIの作った恋文を「字面だけ」と思うのも、それをAIは知らないからだろう。恋する二人には二人にしかわからない「言葉」がある。

また、かつて定時制に勤めていた頃、流行っていた浜崎あゆみの歌を詩として授業で取り上げようと思ったことがあったが、いざ言葉だけにしてみると歌で聴いた感銘や魅力は全くなかった。詩は楽曲を纏い、浜崎あゆみという声やファッションやさまざまな演出の関係性の総体として魅力を発しているのだと思う。

さらに、関係性とは、詰まるところ人と人との身体と身体の関係ではあるまいかとも思ってみる。僕らそのものが身体として関係するところに言葉がある。心に響く言葉とは、胸や腹や臓腑の共鳴と言えるかもしれない。「身を尽くす」「身にしみる」「胸に響く」。日本語の「響く」とか「沁みる」と言う言い方自体がそれを表している。

さらに言えば、人間が身体であることは、やがてそれが失われなければならないという前提を生きていることになる。
命や死を扱った映画の言葉に心を揺すぶられるのは、限定された時間に置かれた切なさへの共感なのかもしれない、などと思ってみたりする。
AIは身体を持たず、死を知らない。

彼女らが観ていた『余命10年』の主題歌、ここにもそれがあるような気がする。


僕らは映画のような極限状況に常に置かれているわけでもない。ただ、一回限りの後戻りができない人生の中で、自分を、あるいはその日その日を大事にしたいと思えば、自分の在り方や生き方、他者との関係について迷わざるを得ない日々を生きていると言えるかもしれない。

そうした捉えどころのない思いに「言葉」が光を与えてくれることがある。彼女らがそれに惹かれ、その理由を探したいと思うような。
でもそれは逆に言えば「悩む力」や「もやもやする力」が「言葉」を輝かせるのだと言えるかもしれない。それこそが、AIにはできない人間としての価値だと言ったら詭弁を弄していることになるだろうか。

彼女らがどこに行き着くか、もう少しもやもやすることにしたい。

言葉を探している 朝の雨に若葉がそっと濡れているような

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