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第40話:勉強って?

西日暑き土間の机に人向かふ垣間見しより何のあくがれ

自分の記憶に誤りがなければ、これは高安国世という歌人の歌である。
頃は夏の夕方、西陽がジリジリと照りつける中で、ある青年が土間に置かれた机に向かい一心不乱に書と向き合っている。作者はふと通り掛かってそれを見たのだろう。その光景に「この胸に起こる憧れは一体何か」と自問しながら一瞬立ちすくんで見たのである。
作者の感じたものが求めて得られなかったものなのか、失われたかつての自分の姿をそこに見たのか分からないが、学問に集中しているその男の苦学の姿に美しさを発見したことだけは確かなことだろう。

高校生は大概勉強を嫌うが、これはそれが強いられる勉強だからなのだろう。学歴偏重の社会では学ぶことは将来の成功のための「道具」として意識されるために歪まざるを得ない。
いつだったか二浪の息子に「たまには遊べ」と言ったばっかりに、口論になり両親が息子に殺されてしまうという痛ましい事件も起こった。

自慢ではないが僕は勉強は出来た方ではない。
小学校の時、通信簿を貰って帰ると「何だこれは」と兄たちに笑われ、中学時代は若干持ち直したものの、高校になると成績はいたってカンバシクなく、大学受験で世界史を受験科目にしたところ担当の先生から「やめた方がいい」と冷たいアドバイスをいただいたりもした。
親に勉強しろと言われた覚えもない。父は小学校の時は漢字の練習を僕らにやらせたりしたが、中学の時、僕がある作家の文庫本を5冊買って帰ったら「こんなものを何故買った」と怒ったりもした。

田舎という環境がそういう言動を引き出すのだろうが、多分同じ田舎だという理由で友人も勉強に対して「カリカリ」という雰囲気はなかった。
しかし、俺は勉強しなかったなどと気取るつもりは僕にはなく、それなりに勉強はした。テニスばかりしていたが、それでも夜は必ず机の前に座り、出来ない数学ばかり、よく一問に一時間もかけながら解いていた覚えがある。
勉強はしたけれど出来なかった、出来の悪い生徒だったのである。

高校3年くらいになるとさすがに勉強することの意味は何かなどと考え、受験勉強というものに抵抗を感じたりもした。

なぜ勉強するんだろう?

今も時々そう考えるが、これは難しい問題である。
生徒はそんな僕の弱みに付け込むように「なぜ勉強しないといけないの」などと聞いてくる。「古典なんてやったってしょーがなくねー」と僕の教えている教科を名指しして攻撃の対象にしたりもする。
まことに素朴な疑問で、単刀直入にそう言われると僕には返す言葉がない。情けないとは思うのだが、それは実際、実に素朴な疑問なのである。

高校時代にある先生が「学問とは学び問うことであって、問うとは批判精神をもつことだ。勉強はつまらないだろうが学問は面白い。大学で学問をしなさい」と語ったことがあった。
確かにそうかもしれないと思ったが、自分が教員になってみると、責任を大学に転嫁しているようで余り説得力を求められなかった。生徒がみんな大学に行くわけでもない。

確かに大学は面白かった。新しいことを学び、本を読んだり、何か考えたりするだけの余裕が、物理的にも精神的にもふんだんにあった。
僕は大学生活は人生の夏休みではないかと思っている。社会的責任もなく、解放感にあふれ、純粋に自分であることが許されている。

ただ万年劣等生の僕は、研究書や論文をしらみ潰しに読み研究に没頭するということを怠けた。だから「学問」からも相手にされなかったと言っていい。
ただ誰もいない学食や図書館の閉架室で本を片手にボーッと過ごす時間が僕にとって非常に大切な意味のあることだったのである。図書館の本の匂いとその空気が好きだった。

僕にはひとつの疑問があって、それは「僕は生きられるか」ということだった。

感傷に過ぎないわけだが、僕にとってそれは大切な疑問であって、それがこびりついて離れないまま、自分をうまく解放できず、他の中にあって他と打ち解けられず、自分を見詰めて自分からはみ出されていた。

そんな居心地の悪さを抱えて10代を過ごしたことになる。今の高校生には笑われてしまうかもしれないが、そうしたことを至って真剣に考え、またそれに真剣につまづいたのである。
大学で国文科を選んだのもそういう事情に基づいている。哲学をやりたいとも思ったが、哲学は僕のような怠け者には向かなかった。
ただボーッと取り留めもなく僕の所在なさについて考えていた。

わが心扱ひかねて手のふみの西行の歌に赤き線引く

これはその頃作った、拙いといえば拙すぎる素朴な歌である。

今の高校生を見ていると、学校では過大な課題に追われ、絶えず行われる大中小のテストに追われている。学校が終わると夜10時頃まで塾で過ごすという生徒がたくさんいる。大変だろうなあと思う。とても怠け者の僕には耐えられない生活をしていると思う。
自己弁護のような不遜な言い方をすれば、彼らはひょっとしたら「ボーッと自分であること」から弾き出されているのかもしれないなどと思ってみたりする。

「なぜ勉強するんだろう?」・・そう再び呟いてみたくなる。

夏休みに目を輝かしながら遊んでいる子供は美しいし、西陽のあたる暑い部屋で一心不乱に勉強している青年の姿も魅力的である。その魅力の源泉について、もう一度僕らは考えてみる必要がある。
目標とか結果ということが大事なのではなく、自分であることから疎外されないことが大事なのではないかと思ってみたりする。

(土竜のひとりごと:第40話)

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