見出し画像

第50話:怠けることと誠実であること

全くの愚話である。

ウチのカミさんによると僕は「怠け者」であるらしく、その見解は僕が僕のことを誠実で几帳面な人間と考えていることと甚だしく食い違っている。

僕はこのカミさんと大学で知り合い、卒業後5年間の付き合いを経て結婚に至ったのだが、この5年間は静岡と神奈川で中距離?恋愛をしていたことになる。
ただ、その間、僕はカミさんにろくに手紙も書かず、自分からはほとんど電話も掛けずに済ませてしまった。

カミさんはやはり不安だったり怒りに駆られたりしていたらしく、ある時、業を煮やしていつまで僕の方から連絡がないか試してみたそうなのである。
僕はそんなことをカミさんが思っているとはつゆ知らず、相変わらず呑気に過ごしていたのだが、一週間経っても二週間経っても一カ月が過ぎても、手紙はおろか電話の一本もなく、仕方なくカミさんはまた自分のほうから電話を掛けたのだそうである。

「私の友達は毎晩必ず電話がかかって来たそうよ」とか、
「一日でも電話をさぼったら結婚しないって条件の人だっているのよ」
などとカミさんは今になって僕を責めたりもするのだが、僕はカミさん以外の人との結婚を考えたりしたこともなかったし、彼女を粗末に思っていたわけでもなかった。
就職したばかりで仕事に慣れるのに大変だったし、むしろ毎日毎日お互い連絡を取り合わなければならないという感覚自体が僕には存在しなかった。それはまことに自己完結の独りよがりの感覚であったかもしれないが、僕は別に怠けていたわけではなく、そうしたことにまったく無頓着であったのである。

ただ、授業で生徒にそんな話をすると、
「えー、信じられない」とか、
「なんて可哀想な奥さん」などと、
ほとんど叫びに近い非難が返ってくるので、僕に非があることは確かに違いない。彼ら彼女らはスマホ世代であるから連絡を取るということが日常化している。
「恋人ができたら毎日連絡するの?」と聞くと、
「あったりまえじゃん」という答えが返ってくる。
「そんなに毎日話すことあるの?」と聞くと、
「何バカなこと言ってるの?」と叱られる。
そうか、そんなもんなんだと思うと同時に、それもまた大変なことだなどと思ってしまう自分がいる。

ともかくもカミさんは相当ヤキモキしていたようで、そういう5年間の積み重なる恨みが、例えば僕が家に帰ってゴロゴロしながら『相棒』などを見ている姿に投影されるらしい。
僕は一週間楽しみにし続けて来た『相棒』を一日の疲れを癒しながら見ていたいだけなのに、彼女はその休息の姿に「怠け者」というレッテルを貼るのである。身から出た錆と言えばそう言えるのかも知れないが、理不尽で悲しいことではある。


しかし僕は思うのだが、カミさんの使うところの「怠ける」という言葉は「誠実・几帳面」の対立語として存在しているわけだが、「無頓着」はそうした価値基準を持っていないということであって「誠実・几帳面」という概念と対立するわけではない。その点、僕の「無頓着」に対するカミさんの「怠け者」という評価は必ずしも正しいわけではない。
もっと言えば、ひょっとすると「怠ける」こと自体が「誠実」と対立、矛盾することなく存在し得る可能性があって、それはもっとも抽象的で崇高な考え方かもしれない。「誠実」なことだけが本当に「誠実」なのかという深い深い問題がそこには沈潜しているのである。

そういうことの深さについて、これから長い時間をかけてカミさんと合意に達しなければいけないと考えるこの頃である。


詭弁を弄するんじゃねえ!
と思われるかもしれない。

その通りだろう。
職場でも提出すべき書類も出さなくて済むものならと、最後から2番目の人が出すまで出さないでいる。最近ではその手が見透かされるようになって、まだ提出していない人がたくさんいるのに「あと土屋さんだけだよ」と声をかけられるようになり、すみませんなどと慌てて出したりするという被害に会うようにもなったりしている。
敵もさるもの!である。
しかし、それは同じように課題の提出に苦しむ生徒に対して「寛容」に対処するという「優しさ・誠実さ」につながっている、と言えば言えなくもない、のである。

(土竜のひとりごと:第50話)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?