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猫とゆく夕焼け小焼け散歩道

夕暮れの奏でる紺のメロディの生きることは悲しみ

同じ短詩形でも、俳句は人気があり、短歌はそれに比べると人気のないジャンルかもしれません。

俳句と短歌の大きな違いは、五七五と、五七五七七の違いであることは明らかですが、それはたぶん、簡潔な17音で省略された乾いた抒情を構成する俳句と違い、短歌は31音、俳句より余分?な14音に、その分量のウェットな「情」が加わってくるという違いと言えるのではないかという気がします。

勿論そうでない短歌もたくさんありますが、そのウェットな部分が短歌の良さでもあり、難しさでもあると思います。俳句であれば読者に委ねる部分を説明してしまう。一人称としての私の思いを込めてしまうと、何となく心をさらけ出しているような、自分でも「鬱陶しい?」感じがしたりもします。

もうひとつ大きな違いと言えば、俳句が多くの、例えば俳句を作らない人にも受け入れられるのに対して(例えば、プレバト、夏井先生とか、とても面白い!)、短歌は歌を「詠む」人も、それを「読む」人も、それを「批評する」人も、短歌の世界の住人であるということかもしれません。

最初に挙げた歌は、僕の悲しさを詠んでみました。そう、今、ちょっと悲しい。この歌は「夕暮れの奏でる紺のメロディの」までが、いわゆる序詞です。「の」は格助詞の比喩の用法で、「夕暮れの奏でる紺のメロディのように」というつながりで「生きることは悲しみ」という情を引き出してきています。

暗い歌かもしれませんが、明るい前向きな気持ちばかりが人の気持ちではなく、それを素直にことばにして歌うことも大事なことかもしれないと思います。でも、そう思いつつ、その「情」が、僕にとっても、読む人にとって鬱陶しいのではないかと思ったりしています。


猫とゆく夕焼け小焼けの散歩道
半月を猫なでながら見ていたり

ちなみに、僕が五七五(俳句ではない)で作ると何故か必ず猫が登場してしまうのですが、これは「猫の手も借りたい?」心理かもしれません。




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