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第52話:トイレトレーニング

[子どもの成長の記憶と記録]

8月、2歳と8ケ月を迎えている亮太は、この夏が勝負とばかりトイレトレーニングの真っ最中である。単にオムツをパンツに代えるだけのことなのだが、親の我々がそれをどんなに意識しようと、本人はそれを意識しないわけだから骨が折れる。

当然のことだが、オムツはオシッコを吸収し、パンツはオシッコを吸収しない。文明人としてもオシッコはトイレでするという、このいかにも、あるいは不思議にも自然なことを、人間となるためのステップとして、亮太は挑んだのであった。

最初とにかくよく漏らした。よくよく注意して見てはいるのだが、ふと気が付くとズボンの前が濡れ、足元に今しも水たまり(オシッコ溜まり)が、表面張力の膨らみを見せながら次第にその輪を広げて行くのが見えたりする。
僕とカミさんは思わず「ヒェー」とか「オー」とか叫び声を上げて「動くな」と命令したなり、一人は雑巾に走り、一人は亮太を抱えて風呂場に走るのだが、当の本人は「オチッコ、オチッコ、出ちゃったの、ヘヘ」とあどけない。

洗ってやりながら「人間はオシッコをトイレでする。亮太は人間だ。故に亮太はオシッコをトイレですべきだ」と論理学的三段論法を用いて諭してやると、「ウン、わかった」と言うのだが、その数時間後には“ジョージョー”と平気でオモラシをする。
「オモラシしちゃたよ、カータン」と言うことはかわいいのだが、これはとてもひと夏では無理であろうと、わが夫婦はその度ごとに顔を見合わせていたのである。

失敗が度重なると、三段論法の優しい言葉が、いつしか二段論法になり、しまいには命令口調の一段論法?になりがちになるわけだが、そこをぐっと我慢して、たまたま成功した時に「スゴイ。お前はエライ。完璧だ」とほめちぎっていると、本人も濡れるのは不快なのだろう、今、この夏の終わりにはほとんど完璧にオシッコを教えるようになって来た。

勿論、完全無欠ではない。何かに熱中している時にはかなりの危険性を孕んでいるが、カミさんの報告によれば、最近ではベランダでオシッコをする余裕を見せているということだ。下の階には20代のウラ若い女性も住んでいて若干気にかからないでもないが、亮太が人間としてのone‐stepを踏むためにはやむを得ないことであろう。


ともあれ僕らは亮太のトイレトレーニングがはからずも短期間に完成しつつあることに喜びと満足を感じているのだが、僕はまた僕で亮太のトイレの様子を甚だ興味深く観察させていただいた。

彼は「オチッコ」と言い、僕かカミさんのどちらかを誘ってトイレに赴く。ズボンとパンツを脱がせてやると、トイレの蓋を開け、よじ登るようにトイレに座り込んで“チーチー”と言いながらオシッコを始める。便器の上に乗せて使う子供用の便座もあるのだが、子供扱いされたくないと見えて、その使用を拒むため彼のオシリは半ば中に落ちそうになっている。

オシッコが終わるとトイレットペーパーを引き出してチンチンを拭く。男の子はそんなことをしなくてもいいんだと言ってやるのだが、ガンとしてきかない。それから水洗のコックをひねって水を流し、フタ閉じると、そのフタの上に乗って手を洗い、ご丁寧に備え付けのタオルでしっかり手を拭いて出て来る。

そうしたいちいちのことは必ず決まってそうなのであり、決して忘れたり面倒臭がってやめたりすることがない。
それを大変不思議に思うのは、僕がトイレに行って手を洗うとか、ましてやその手をタオルで拭くなどという文化を持っていないことに由来するのであり、諸君も僕が採点したテストの解答用紙など、そういう観点に立って扱った方が良いと思うのだが、まるで学習した一つの価値を守ることに強い執着を持っているかのように頑固なのである。

三つ子の魂百までもと言うが、人はこうして人としての基準となる価値を身につけて行くのかもしれない。ひょっとしてうまくやれば良家の子息のような“良い子”に育てることが出来るのではないかなどと愚かなことを考えたりもするわけだが、単一の価値の中にだけ彼は生きているにしろ、揺れ動く曖昧な時代の中にあってこの頑固さは、これが生きるために人に与えられた本能であるかのように力強く感じられたりもしたのである。

ただこれも良いことばかりではない。
僕が室内用のスリッパでベランダに出ると、「イケマテン」という亮太の叱責にあう。車で出掛けるときも、信号を黄色で通過しようものなら「ダメでチョ。もう」と僕をたたきながら怒って絶叫する。
「もう少し about にならないと生きて行けないよ」と僕は心の中で思うのだが、その理屈はコヤツには通用しない。
仕方なしに「だって」と言うと「だってじゃないでチョ」と手厳しい。

子供に躾けられているようで何となく肩身が狭いのだが、「まだコヤツには“人は矛盾を内包しながら生きるゆえに人なのである”という深遠な思想が理解出来ないのだ」と自分を慰めながらも「スイマセン」と思わずあやまってしまうダメオヤジであるところの最近の僕なのである。

(土竜のひとりごと:第52話)

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