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レッサー・アート、サブカルチャー、大衆文化、限界芸術・・・

さて、モリスから小野二郎へと受け継がれた「レッサー・アート (lesser art)」という言葉、今では、なぜか英語でも lesser art(s)という言葉はあまり使われなくなっていて、もっぱら minor art(s) など他の言い方が主流ではあるけれど、いずれにしても、いわゆるハイ・アート=高級芸術ではない、もっと日常の生活に近い、クラフトやデザインなどを意識した言葉であることにはちがいない。

「サブカルチャー」という言葉が、60年代初期にはまだ目新しく、日常化していなかったという津野海太郎の言葉を前回引用したけれど、これもまた、less と sub のニュアンスから推測できるように、重なる領域だ。ただ、サブカルチャーは、その後、どんどんと大量複製メディアに媒介された都市的な大衆文化の方へと引っ張られていったので、しだいにその重なりを小さくしていったかもしれない。

だが私が気になるのは、レッサー・アートとサブカルチャーだけではない。様々な類似コンセプトが60年代に出てきて、ハイカルチャー以外の世界が多数化し、入り乱れて一挙に文化の領域全体が熱を帯びたことだ。

民芸、民衆文化、大衆文化、カウンター・カルチャー、限界芸術などなど。もちろん、50年代にその素地がすでにあるのだけれど、60年代には、それらが互いに接触して激しい化学反応を起こしながら「文化」の地図をどんどんと書き換えていった。そんな感触がある。

それはおそらく、民衆、市民、大衆、庶民、常民、群衆、人々など、市井のあるいは地方の農漁村に暮らす名もなき人たちをあらわす呼称が増えたことと表裏の関係にあるのだろう。丸山真男は「市民」、吉本隆明は「大衆」、柳田国男は「常民」、というような明確な意図を持った使い方は、例外的に分かりやすい典型だとしても、こうした用語の選択には、しばしば使い手の思想的な傾きや状況判断が影を落としていたものだ(今もそれは変わらない。ちなみに、石牟礼道子はどこかで「市民」という言葉への激しい嫌悪感を吐露していた)。そして、思えば、この「衆」をめぐる概念の多元化と錯綜は、そのまま「文化」という概念の豊かな混乱と広がりを示唆していた。晶文社は、そこに積極的に踏み込むことを自覚的に選択した出版社のひとつだった。

消去法的に言えば、晶文社から出るものには、高度経済成長を支えてきた上昇志向あるいは教養主義的な匂いを持ったものが少ないことが、そのことをよく表している。もちろん、多岐にわたる出版リストの中には、そういう傾向に棹さすものもなくはないけれど、文学の領域をみたって、たとえば漱石や鴎外や谷崎といった、いわゆる大家を扱った書物はあまりそのラインナップに載ってこないし、研究書であっても、各ジャンルの中心というよりは、むしろ周縁的な領域、あるいは領域横断的な仕事をしている著者に光を当てたものが多くを占めている。

たとえば視覚芸術でいえば、ハイアートに属する絵画や彫刻の世界を扱ったものというよりは、晶文社の「縄張り」は、写真やデザインや絵本などだった。今や古典となっているスーザン・ソンタグの『写真論』(オリジナルは1977年)なんかをいち早く翻訳出版(1979年)したのは、いかにも晶文社らしい動きだったし、音楽の世界では、クラシックというよりは、ジャズに力を注ぎ、植草甚一だけではなく、本場のライターたち、ラングストン・ヒューズ、リロイ・ジョーンズ、ナット・ヘントフなど、まだ日本ではほとんど知られていなかった黒人作家や批評家の著作を出したりしている。

晶文社は、これ以前にも『ハノイで考えたこと』(1969)や『ラディカルな意志のスタイル』(1974)といった評論集を刊行し、いち早く日本の読者にソンタグの仕事を紹介している。

ただ、こういう動きが晶文社だけに収まらないと思うのは、たとえば、小野よりはるか以前に、モリスからの影響は、民芸の先導者であった柳宗悦(日本でのモリス受容第一世代)に深く届いていたわけで、その民芸的なるものの再評価が60年代には広がっていたということを見てもわかる。「手仕事」という概念の復権をめぐって水尾比呂志や山崎正和などが熱く語ったことなどがその一端であり、いささかそこには反動的な匂いも纏わっていたけれど、日常の生活世界における表現の可能性を、制度化された濃密な文脈の中に自閉しつつあった「美術」の外側に見出そうとしたという意味では、響き合うところがある。

そして、この、時の流れに逆らうような小野ーモリスー柳というネットワークは、さらに「限界芸術」という概念を通じて、日常生活の中にさりげなく胚胎されている表現の「種」に注目した鶴見俊輔へと伸びていく。鶴見は、柳宗悦に対する敬愛を様々な場所で語っているし、何より、柳が、他の白樺派周辺の人たちとは対照的に、戦時中に軍国主義化することなく踏みとどまれたことの理由を探るべく、その評伝まで書いていることを想起すれば、彼の「限界芸術」が柳の「民芸」、さらにはモリスの「レッサー・アート」の系譜に連なる概念であることが納得できるだろう。

柳の場合、朝鮮の日常的な陶磁器への美的共鳴が、国境を軽々と超える文化の接続可能性を具体的なものとして実感させ、国家主義を相対化するひとつの契機になったわけだが、そう考えると「政治の美学化」ならぬ「美の政治化」の印象的な具体例と言っていいのかもしれない(近年のポストコロニアリズム的な視点からの柳批判についてはここでは脇にとりあえずおいておく。そのことに関心のある人には、中見真理による岩波新書の『柳宗悦』のバランスの取れた見解を参考にされることを薦める)。

この本は、その後、平凡社ライブラリーの一冊として再出版され、今に至る。

鶴見は、柳や民芸の研究にとどまらず、マンガや漫才など、より今でいう「サブカルチャー」に近いところにある表現領域にも深い関心を持ち続けたが、その好奇心と知と記憶の広がりは、まさに「巨人」と呼ぶにふさわしいものだった(ご本人は、生きていらっしゃったら、そんな呼称、嫌がられるだろうが)。晶文社が示した道と親和性の強い隣接空間に鶴見も居たと言っていいし、事実、鶴見の著作や鶴見についての本は何冊か晶文社のラインナップにも入っている。私の好きな座談本が多いのもこの人の特徴で、様々な他者との関係の中で実践的な思想を発酵させていった人だということに、あらためて思いを馳せる。この人のことを語り出すと、また止まらなくなりそうなので、今日はここまで。

PS)ちなみに、ページトップに掲げた写真は、小平霊園にある柳宗悦の墓(柳家何代かが一緒に眠っている)の木蓮。


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