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宇野重規『実験の民主主義』を読んで

「新しい時代には、新しい政治学が必要である」

宇野重規の『実験の民主主義』(中公新書)の冒頭は、トクヴィルのこの言葉の引用から始まります。今、読み終えてみて同書は確かにその言葉通り、新しい時代の新しい政治学となっているのではないかと、新鮮な感動に浸っています。

「トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ」という副題からも分かる通り、同書の射程はトクヴィルの思想を紹介するにとどまらず、新しいアソシエーションとしてのファンダムの可能性にまで広がっています。

同書のなかで聞き手の若林恵氏との掛け合いから生成されていく対話そのものがまさに、「答え」ではなく「問い」を探す「民主主義の実験場」となっているように思います。


1.「頭の民主主義」から「手の民主主義」へ

同書で強調されているのは、「リテラシー」から「コンピテンシー」へ、「頭の民主主義」から「手の民主主義」への移行です。それは、一部の限られた権威ある人間が意志をもって決定したことが政策として処理されていくようなタイプの民主主義から、誰もが参加することができ、皆で能力を持ち寄って実践していくようなタイプの民主主義へ、と言い換えられます。

本書の民主主義に対するメッセージを宇野は以下の2つにまとめています。(p.295-297)

  1. 執行権(行政権)への着目:今日においてますますその影響力を拡大している執行権に対し、私たちは選挙以外の方法で影響力を行使することができるのではないか。私たちは「選挙の日だけ自由である」わけではない。

  2. 新たなアソシエーションとしてのファンダム:トクヴィルがアメリカにおいて発見した、普通の市民が地域の課題を自ら解決していく技術としてのアソシエーションが、「推し活」のようなファンの活動に見出せるのではないか。ファンダムに見られる相互のケアや自発的な協力関係にこそ、「21世紀の政党」の新たなモデルを見出せるのではないか。

そして、同書の特長はもう一つあります。それは、決定的な一つの「答え」ではなく「問い」を探し続けるプラグマティズムの実践に民主主義の可能性を見出していることです。

思いを共有できる人と一緒に体験を育んでいけばいい。やってみたことと結果とが、必ずしも一対一の関係でなくてもいい。一緒に学んでいく体験を重ねていくなかに充足感がある。一緒に前に進んでいるという体験が、とくに自分の人生が有限だと思っている高齢世代にとってみると、むしろ救いになるのかもしれません。

同書、p.282

ここでは、高齢化が進む日本を念頭に高齢世代が挙げられていますが、「失敗したら終わり」とか「自分の人生が有限だ」という感覚に囚われているのは、若い世代も同じなのではないか、と私自身の経験に照らして思います。

「とりあえずやってみる」「やってみた」の積み重ねこそが民主主義の原点である。そして「推し活」のような一見非政治的な日々の営みこそが、実は民主主義の担い手となる第一歩なのかもしれない。そのような気付きを同書は与えてくれます。

2.「他者をケアすることで自分がケアされる」

同書のなかで個人的に感動したポイントは、ファンダムのなかに見られるケアの側面です。

(若林)アイドルや歌手を推している行為のどこかは、自分に対するケアの側面があるような気がしています。そこには、単なるエンタメ消費以上の切実があるように見えます。
(宇野)自分が推しているアイドルに依存しつつ、誰にお金をもらうわけでもないのに、その対象やそのコミュニティのために一生懸命何かをやってしまう。つまり、依存は単に一方的に依存するわけではなく、そこに相互性が発動する。自分が助けてもらったことに対する返答・返礼の気持ちが生まれるわけですね。

同書、p.278

この「他者をケアすることで自分がケアされる」という側面は、これまでの政治学において十分に語られてこなかったことではないでしょうか。そしてそれは、ケア(依存)を不可視化する近代社会の構造とも関係しています。

前近代社会は、誰が誰にどう依存しているかがわかりやすく可視化されていて、だから「お前、俺の言うことを聞け」という隷属関係が生まれやすく、ルソーはそのことをひどく嫌ったわけです。しかしながら、近代社会が隷属関係から自由になるというのは建前で、実際は「依存」を見えなくしただけだとも言えます。(中略)厳しく言えば、自分が何に頼っているのかわからなくするのが、近代人の自立だったわけです。

同書、p.274-275

同書に登場する「革命とおにぎり」のエピソードは、この「実は誰かに依存しているのにそれを見ないふりをする」という近代人の矛盾を象徴しているように思います。

学生運動で男たちが国家権力の奪取と平等の実現を叫んでいるとき、彼らが食べるおにぎりを作っていたのは女性たちだった。つまり、足元の男女平等には目もくれず、理念としての平等を声高に叫ぶことができるほど、自分たちがケアによって支えられていることに無自覚だった、ということです。

このことは裏を返せば、身近な他者のケアによって成り立つ自己を自覚し、他者への感謝によって相互に支え合う関係性を築くことで初めて、コミュニティ、ひいては社会が持続可能なものとなる、ということを示唆しているのではないでしょうか。

3.「自分でやれ」自己責任論との距離

一方で、同書を読んで気になったことが一つあります。それは、「自分たちでやってみる」というプラグマティズムの思想が、新自由主義的な自己責任論に回収されてしまう危険性です。

同書では、行政では手の回らなくなった領域で、市民が自ら課題を見つけて解決しようとしてみることを評価しています。

(若林)最近「環境系ユーチューバー」と呼ばれる人がいます。(中略)行政では手が回らない公共活動の領域に、ファンダムのビジネスモデルを持ち込んだ面白い実践なのかもしれないと思っています。
(宇野)いまの時代は、そもそもどこに課題があるかが、行政側にもわからなくなっている時代ですよね。そうしたなか、誰かが自分なりに課題を発見して、「こういう課題をこうやって解決できますよ」というところを見せていくことができるわけです。その意味で、いままでの考え方からちょっと離れて、新たなプラグマ、すなわち行為を実践する場所を見出していくことが大事なのですね。

同書、p.248

確かにその通りだと思うのですが、そうした実践に行政側が便乗したり、「我関せず」という態度でいたりする危険性も潜んでいるように思います。

例えば、子ども食堂はもともと行政の政策が手薄となっていた貧困家庭の児童に対して食事を提供しようと、地域のボランティアが主体となって始めたものです。行政側は今でこそ子ども食堂を評価し、率先して支援していますが、本来であれば行政側のそれまでの不作為や予算の配分が見直されるべきなのではないでしょうか。

また最近では、国立科学博物館がコレクションの収集や保全費用を確保するためにクラウドファンディングを実施したことが話題になりました。これも、本来であれば国の予算配分を見直すべきだったのに、「クラウドファンディングという新たな手法によって資金を確保することができた。だから予算を問い直す必要はない」という悪しき前例になってしまった、との批判の声がありました。

重要なことは、行政に頼り切りになるのではなく自分たちで地域の課題を解決しようとする「自治」と、本来行政が果たすべき役割を民間に代替させる「民営化」とをしっかり区別することではないかと思います。

その意味で、ロザンヴァロンが強調する「執行権に対する民主的なコントロール」をどのように具体的な実践に落とし込んでいくかが切実な課題になるのではないかと思います。

選挙の日だけでなく、執行権をつねに監視し、責任を追及する。オンブズマン的な機能のみならず、情報やデータを公開させて、それを使って有権者が日々意見を言っていく。さらに、「こういう課題に対しては、こういう対策がある」といった問題提起やソリューションの提案まで、市民が行政に対して提案する。それが可能になることを、ロサンヴァロンは「行使の民主主義」と言いました。

同書、p.131

4.意味のある変革には時間がかかる

以上が同書を読んだ私の感想です。正直なところ、本当にファンダムが政治的な主体となりうるのか、まだ未知数なところが多いなと感じましたが、あえて非政治的な結社に民主主義の萌芽を見るという態度は、アメリカの民主主義に可能性を見出したトクヴィルと通底しているのだと思います。

最後は、この点に関する宇野の引用で終わりたいと思います。

旧来型の政党モデルが機能しなくなっていくなかで、ファンダムのような組織から新しいクラブや政党が生まれ出てくるまでは、おそらくもうしばらくは時間がかかりそうですね。(中略)

プラグマティズムの実践も実はそういうものなのです。プラグマティズムで世の中のすべてがうまく回るかというと、そうではない。きわめて見通しの悪い時代において、たくさん実験して、そのなかの相互影響や習慣化を通じて、少しずつ意味のある変革の効果を拡大していくというアイデアですから。

同書、p.241

最後までお読みいただきありがとうございました!

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