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国籍や国境を越えたその先⑥

前回の「国籍や国境を越えたその先⑤」では初めて訪れた中国の初日に起きたエピソードを書きました。
それは「自分のルーツの大地を踏み、祖国の風を感じて涙した」みたいな感動秘話とは真逆で、初の単身海外渡航だった16歳のボクにとっては非常に恐ろしく、悪い第一印象を抱いた空港での経験でしたが、二日目以降は北京観光で気分一新。写真やテレビでしか見たことがなかった天安門広場、万里の長城、明の十三稜、紫禁城など、中国語で教わった歴史(=知識)が、目の前に広がる感動(=体感・体験)に換わった滞在でした。
今回は北京滞在とその後、寝台車に乗って東北部を旅したことを中心に書きます。
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1985年の12月末、その年の仕事を終えた父と合流し、北京に4日間滞在した後、北京駅から寝台車に乗り、17時間掛けて中国の東北部、かつては満州と呼ばれていたエリアへ移動した。
その旅で印象的だったことのひとつが「人民服」を着ている人の多さ。
まだ国営企業、国有企業が多かった当時、飯店・賓館(ホテル)の従業員、列車の車掌はもちろん、前回登場した空港職員など、至る所で人民服姿で働いている人を見かけた。それは気温がマイナス10℃の瀋陽やマイナス20℃以下の哈爾濱(ハルピン)でも同じで、人民服と同デザインの分厚いコートを着た人が大勢おり、労働者の優に半分以上、60~70%は人民服を着ている印象であった。
いま思うと、80年代半ばは人民服を着る慣習、または規則が続いた最後の時代だったのかもしれない。
この初訪問から7年後、大学卒業後に就いた仕事で1993年に中国へ出張した際、今度は人民服を着ている人がめっきり減っていることに驚いた。10年も経たないうちに、その割合は、あくまで感覚的なものだが、都心部では5%未満、郊外で約10%、農村部は地域差が大きいが15~20%程度に減っていたし、2000年以降に訪れた際は、人民服姿の人はほぼ見なくなっていた。

だが、衣服という外面・表面的な部分が劇的に変わっても、人の思想やメンタリティ、内面的な部分はそれほど大きく変わっていないようにも思えた。
その理由のひとつが「毛沢東」の肖像画や写真の多さ。
中国を訪れるまで、天安門広場に掲げられた毛沢東の肖像画は何度も写真で見たことがあったが、実際に間近で見てみると、まずその大きさに驚かされた。
というのも、どんなに偉大な政治家、僧侶、武将がいても日本であれほど大きな肖像画が公共の場に掲げられているのを見たことはなかったからだ。
高校生ながらも、これが社会主義の象徴やなぁ、を感じたボクが更に驚いたのは、天安門広場だけでなく、重厚な建物やホテルに入るとロビーに毛氏の肖像画が掛けてあったり、タクシーに乗ると毛沢東と周恩来の写真が表裏一体になった飾りをバックミラーに吊るされていたり、中華人民共和国を建国した政治と思想のリーダーが没後10年近く経っても人民の心中に大きく存在していることに衝撃を受けた。
90年代の半ば(仕事で中国担当だった93~96年の4年間)、出張で頻繁に中国を訪れ、沿海部の都市だけでなく内陸部の都市や街など各地に赴いた際、バックミラーに毛沢東と周恩来の写真を掛けているタクシーに乗り合わせる頻度は依然として多く、工場や商業施設に入ると肖像画を見かけることも多かったので、80年代から90年代にかけて着用する衣服が劇的に変貌したのに対して、毛沢東人気や崇拝心など思想面はそれほどの大きな変化はなかったように感じてした。

勿論この毛沢東思想や愛国心など、目に見える指標がないだけに推し量ることが難しい国民心理・内面的な部分も少しずつ変化が生じてっていたと思うが、大きく変わるキッカケは1989年の天安門事件であり、神格化を疑問視し燻っていた否定的論調の火種が一気に表面化したのが1997年に香港の主権がイギリスから中華人民共和国に返還されてからのように感じていた。
これはあくまで個人的な感覚と考えだが、この国民感情が変化した大きな要因は、毛沢東の功績だけを強調せず、美化され過ぎていた点は修正し、事実を浮き彫りにさせた書籍、どちらかというと批判的な内容が書かれた書籍が次々と出版され(出版が許可され)るようになったことが挙げられるだろうし、神格化の幻滅と共に、自由経済へ移行したことで、国民の関心が個人の富へ移ったことも背景にあったと思われる。

寄り道から戻ります。
高校生だったボクにとって、「人民服」と「毛沢東」の他にも街の光景で印象深かったものがいくつかある。
滞在したホテル周辺を少し歩くと、馬やロバに牽かれた荷車が何台も走っており、信号が赤になってもロバを急がせる様子もなく悠然と進む荷車。
そんな光景は日本の都心部で見たことが無かったので、まさか首都北京で闊歩するロバと頻繁に遭遇するとは全く想像しておらず、そのなんとも悠長なロバの歩みを面白おかしく眺めていたのを覚えている。
一方、自転車の多さは事前に聞いていた通りだったのでさほど驚かなかったが、主要道路からひとたび細い路地に入ると、そこに並ぶ屋台の多さには驚かされた。屋台の周辺には大勢の人が地面に座り込み、純朴そうな表情で談笑している姿や決して上品とは言えない、貪り喰うような食べ方で腹を満たし、どこか幸せそうにしている光景がとても新鮮であり、それらの表情を今でも鮮明に記憶している。
下の写真は屋台で売っていたヨーグルト飲料を買った時の一枚

北京の露店で買ったヨーグルト飲料を飲む父と高二のボク

さらに驚いたのは、それらの路地の壁面に赤いペンキで書かれた標語の数々。それらは改めて書くまでもないような「手を洗いましょう」「街を清潔に保とう」「ごみを捨てないように」など、衛生管理やマナーに関する内容が多かったが、中でもビックリしたのが、
「请勿随地吐痰」直訳すると「所構わず痰を吐かないように」の標語。
この「痰を吐くな!」のように、そんなことを敢えて書かないとアカンのか!と思える標語は、初めて訪れた80年代だけでなく、頻繁に訪中した90年代になっても街の至るところで見かけた。

これを見る度に、中国の人達には失礼だとは思いつつ、どうしても ”民度” が低いんやなぁ、と感じる自分がいた。
と同時に中国にルーツを持ち中国国籍である自分自身もその民度の低い国民の範疇に入っているのか、それとも日本で生まれ育った自分は入っていないのか、一体どっちなんやろうか、という困惑がいつも付き纏うのであった。

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北京駅から乗車した列車は既に発車したつもりでしたが、どうやら今回のnote列車も遅々として進まず未だ北京に留まったままです。
せめて写真だけでも北京から東北へ進めて、遼寧省の瀋陽駅のものを載せます。お読み下さりありがとうございました。

中国東北部最大の都市・瀋陽

宜しければ前回のnote記事も併せてご覧下さい。


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