承認 = 褒めること じゃない!?
「承認」が最も重要。
「承認」するべき。
「承認」しなければ始まらない。
「承認」ということの重要さは、よく言われるようになってきましたね。
しかしながら、それと同時に「承認 = 褒めること」と勘違いしてしまうケースも多いようです。
もちろん、承認の中に「褒める」という行為は含まれていますが、それだけではありません。
例えば、「叱る」「注意する」はどうでしょうか?
「承認」でしょうか?
一つの考え方として、
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「承認」という土台の上に、
・褒める、ねぎらう
・叱る、注意する
という行為が乗っている。
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という解釈もありかと思います。
なぜならば、
“注意をする”ということは「その人」を「仲間」や「チームメイト」と認めているからこそ起きる行為だったりもしますよね?
そう、
「承認」とは
「日常」なのです。
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「いつも出勤してくれてありがとうね!」
「いつも気持ちの良い挨拶をありがとうね!」
「〇〇くんのこういうところ、とっても素敵だと思うよ!」
「〇〇さん、最近どうしたの? 少し暗いみたいだけど、、なんかあった?」
こうした日常の中でのコミュニケーションを通して、
「自分のことを、見てくれている。」
「自分のことを、気にかけてくれている。」
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そう感じた時に、
人は自分のことを「認めてもらえている」というふうに感じます。
達成したことを認める「成果承認」
成果が出た過程を認める「プロセス承認」
成果が出る出ないにかかわらず、こんな思いで取り組んでくれたことを認める「意思承認」
あなたがいてくれることに感謝する「存在承認」
特に下の二つは、「日常」ではないでしょうか?
日常の積み重ねが、
些細な声かけが、
仲間に、上司に、部下に、「認めてもらえている。」
という感覚をもたらします。
そんな日常から、心のコップが満たされ、「承認」の土台ができている人は、
叱られても
注意されても
それをありがたく感じるのではないでしょうか?
だって、その人のことを、1人の仲間として認めているから、「褒める」
本気で向き合える仲間として認めているから、「叱る」
街を歩いていて、どうでも良い人に、注意はしないですよね?
・「褒めること=承認」じゃない。
・「承認とは日常」である
・「褒める」という行為、「叱る」という行為は「承認」という土台の上に。
ただ、「承認」の土台がないのにもかかわらず、
「叱る」「注意する」
だけやっても、間違いなくその人の心には刺さらないので、いかに、「承認」という土台を形成できるかが重要になるのではないかと考えています(^ ^)
組織において、人と人が関わっていく中で、大変重要だとされる「承認」
お互いが、お互いに「いいね👍」と言える。
お互いが、お互いに「この方がいいんじゃない!」と指摘できる。
そんな職場を作っていきたいですね(^ ^)
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