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教養という幻

「付き合うなら教養がある人がいいなー、、」

スタバで聞こえてきたこの言葉を受け、僕は思った。
「教養なめんな!!」と。

職業柄、上司や年上のお客さんと話す機会も多いため、教養を身に着けようと思い、その類の本を買い漁っていた時期があった。

数十冊読んでみて気づく。
「あれ、教養ってとてつもなく範囲広くない、、?」

人はどういうときに「この人は教養があるなー」と感じるのだろうか。

時事問題を流暢に解説しているのを見て?
それとも、クイズ番組で得意げに回答するところを見て?
はたまた、旅行先で意外と歴史に詳しい人だと知ったとき?

ではもっと踏み込み、そもそも皆は何を教養だと捉えているのだろうか。

大学で習うお堅い学問?
絵画やミュージカルといった芸術の類?
流行りの曲やファッショントレンド?

何を教養だと捉えるかは各人の自由だが、世間一般で使われる教養という言葉は、何かの知識を指していることが多いように感じる。

でもかのWikipedia先生曰く、教養とは

個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。

「Wikipedia」

とのことだ。

また、皆大好き池上先生は、教養=”知識の運用力”と話している。

要は教養とは知識だけに留まらないのだ。

となると、皆が共通に思い描ける教養人など存在しないのではないか。
だって、教養の範囲は広すぎるから。

所詮人は自分自身が教養だと認識している範囲内でしか、教養のあるなしを判断できない。

判断するためのものさしが自分が持つ教養の尺度でしかない以上、せいぜい自分の教養と相手の教養がマッチしているかどうかしか分からないのだ。

であれば、自分の教養の範囲を広げていけば、必然的に判断できる教養が増えるかもしれない。

理論上はその通りだ。でもどうだろうか?

学校教育で習うようなものはさておき、興味がないことを教養だからという理由で学べるだろうか。

例えば、僕は西洋絵画が好きだが、その界隈なら、ダ・ヴィンチの代表作として、モナリザ、最後の晩餐、サルバトール・ムンディあたりは挙がる。

モナリザはさておき、実は2つ目もよく知らないという人も意外と多いのではないか。

逆に僕はスポーツに疎いので、年上の方々が話すプロ野球トークは何回聞いても頭に入ってこない。

彼らは野球が共通言語なことも多いので、「巨人とジャイアンツって同じ球団なんですか!?」等という人は世間知らずくんに見えるだろう。

このように一人ひとりの興味・関心が違う以上、自分の世界の当たり前を教養とみなし、それをもとに他者の教養有無を判断するのは危険だと思う。

そんなことを考えていると、冒頭の発言に「めっちゃ分かるー!!」と相槌している子の綺麗な横顔が目に入る。

さてYoutubeを閉じて、まずは本でも読もうかな。

水無月 双

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