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”すごい”と”あこがれ”

「あの先輩すごいよなー、、それに比べて俺は、、笑」
という声が聞こえた。

それに対し、
「いやいやお前だって俺からしたら、、」
というお決まりの返しも。

ただ、今日話したいのは、”自虐を餌に賞賛釣る男くん”の話ではない。

20年生きて分かったことがある。

それは「”すごい”何かを持つ人は、人としても”すごい”と思われやすい」ということ。

僕も仕事ができる先輩を見ると、多少パワハラ気質でも”すごい”人フィルターの影響か、なぜか彼を認めてしまうときがある。

そんなとき、僕はこう問うようにしている。
「この人に”あこがれ”の気持ちは持てるだろうか?」と。

思うに、”すごい”は加点式で、”あこがれ”は減点式だ。

周りで”すごい”と思う人をそう感じる理由を思い浮かべてほしい。

頭がいいから、歌が上手いから、etc…

超絶美人も、起業家も、甲子園球児も、逆上がりができる小学生も誰かにとっての”すごい”人であり、人はその頭一つ抜けた能力を根拠にそのすごさを感じる。

対して、自身が憧れる人はどうだろうか。

誰に対しても優しいから、堂々と自分の意見を言えるから、etc…

今度は人間性全般に関わる理由が出てくるはずだ。

人としてちょっと、、と思うポイントがある人には、他に魅力があったとしても、不思議と憧憬の念を持つことはできないだろう。

そして、”すごい”と”あこがれ”には決定的な違いがある。
それは”すごい”には、誰かの価値観や生き方を変える力がないということ。

一能力に対する感情である以上、”すごい”を通じて、「わー、、あの人って…」という感情は生まれても、「よし、私も…」というスイッチが押されることはほぼない。

だから、”すごい”に感化されやすい人は、それが”すごい”に留まるのか”あこがれ”に至るほどの感情なのかを見極める癖をつけることが、ブレない自分を保つうえで重要だと思う。

また、周りの”すごい”とされる人に気圧される必要もない。

自らの知らない世界を知っている、プロスポーツ選手、一流芸能人あたりまでいくと別だが、そもそも自分の周りにいるという事実が、自分の届きうる範囲の”すごさ”でしかないことの証明になっているからだ。

”すごい”が”あこがれ”に至ることで、はじめて他者に干渉できる。

だから、僕は”すごい”のその先の気持ちを持ってもらえるような存在でありたいと思う。

水無月 双



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