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【調査・考察】山姥切国広の逸話の元ネタを調べてみたら

2023年夏インテで無料配布した冊子「化け物斬りの断章」p4~13を抜粋・再編集しました。
冊子は9/9 12時よりBOOTHで頒布します。(販売ページは当日開きます)

【おことわり】
※本稿は、2024年1月発行予定の情報まとめ本「山姥と山姥切(仮題)」に収録予定の文章です。一部を先行で切り出したものになります。
※筆者は、刀剣、近世文学いずれの分野においても専門家ではありません。伝聞によるものと、自分の目と耳で見聞きしたこと、それを元に考えたことはできる限り分けて記述するよう努めていますが、正確性について絶対の保証は致しかねますので、お気を付けてお目通しいただけますと幸いです。

▼1.失われかけた山姥切伝説とその再発見

1-1.杉原祥造刀剣押形「山姥切由来」文書

刀剣「山姥切国広」の文化財指定より遡ること42年前。
大正9(1920)年にその名の由来を伝える文章は確かに存在していました。

■杉原祥造刀剣押形「山姥切国広」 (著作権の保護期間は満了)

 明治~大正期の刀剣研究家・杉原祥造氏。彼は当時山姥切国広を所有していた三居家で実物を見て押形を制作し、三居翁なる人物より聞いた山姥切国広にまつわる物語を「山姥切由来」として記録しました。押形には大正9(1920)年と記載されており、これが制作時期であると推察されます。
 そして押形は杉原氏の没後、弟子である内田疎天・加島勲両氏の手によって編纂した「新刀名作集」に収録されました。

 北条家の浪人、石原甚五左ヱ衛門が妊娠中の妻を連れて信州小諸を通った時、妻が山中で産気づいた。途方に暮れた甚五左ヱ衛門は谷間より煙が立ち上っているのを見つける。降りてみると、一軒の家があり、老婆が一人で住んでいた。甚五左ヱ衛門は妻を老婆に託し、急ぎ薬を求めて小諸へ行った。
 戻ってくると妻の泣き声が聞こえる。見ると妻が産んだ赤子を老婆がむしゃむしゃと喰らっていた。甚五左ヱ衛門は怒って一太刀斬りつけると、老婆は窓を蹴破って出ていった。老婆の血の跡を追っていくと山腹の岩窟まで続いている。松の葉で岩窟の中を燻すと老婆が怒って出てきた。牙を嚙み鳴らして飛び掛かってきた老婆を甚五左ヱ衛門は一刀のもとに切り伏せ、その刀を「山姥切」と名付けた。

 その後、関ヶ原の合戦の際に井伊家の家臣の渥美平八郎が刀を打ち折ってしまい困っていたので甚五左ヱ衛門は平八郎に山姥切を差し出した。石原渥美両家はその後、三、四百石の石高と井伊家の足軽大将としての任を賜り明治維新後まで存続したが、渥美家は困窮に陥り、山姥切を担保に彦根藩長曽根にある醤油屋の北村家から金を借りた。借金を返済して刀を手元に戻す
ことは叶わず彦根藩三居家の所有となった。
 これは三居翁が杉原へ直接話したことである。

杉原祥造刀剣押形「山姥切由来」文書(意訳)

 このような文書が存在するにも関わらず、なぜデータベースには「山姥切のいわれは不明」と記されているのでしょうか。

 山姥切国広を國廣の最高傑作と評価したのは新刀研究の大家・佐藤寒山氏です。そんな彼が自ら「国広の決定版のつもりで書いた(「寒山刀話」p
132)」とする本があります。「国広大鑒」といい、その本には山姥切国広はこのように紹介されています。

 杉原祥造氏の註によれば、刄長二尺三寸三分、見幅広く重ね薄く、匂口かたく沸つき、葉入り飛焼かゝり、一見備前長義とよく似た出来と云う。 
押形によれば、刄文はのたれに互の目交り、表裏に棒樋を掻通し、
茎は生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、
目釘穴一。細鏨小ぶりの銘である。

引用元:日本美術刀剣保存協会「国広大鑒」解説篇 p27

 佐藤氏は山姥切国広を見たことが無かった(当時の刀剣界では山姥切国広は関東大震災で焼失したという噂が事実として信じられており、佐藤氏もその一人だった)ため、この本では「新刀名作集」所載の杉原押形を元にする形で解説文が書かれています。

 しかしながら。
 よく調べてみると、この押形の引用元って、もしかすると「新刀名作集」ではなくて、それより後に出版された「新刀押象集」ではないかと思えるんです。

1-2.新刀押象集においてこぼれ落ちた情報

「新刀押象集」収録時の杉原祥造刀剣押形「山姥切国広」
加島勲・内田疎天. 新刀押象集上巻. 大阪刀剣会. 昭和10年. 国立国会図書館 デジタルコレク ション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174337 (参照:2023-08-05)
著作権保護期間満了

 先発の「新刀名作集」では存在していた「山姥切由来」等の文章群がなぜかごっそり削除されているのがわかると思います。ちなみにこの「新刀押象集」の著者は加島勲氏と内田疎天氏なのですが、その序文にはこのようなことが書いてあります。

作家と作品の記述方法に就ては、更に大に考へさせられた、
短く書く、要領を掴んで書く、面白く書く、素人臭くなく書く、素人染みないで書く、史寶を尊重しつゝ藝術的に、 
而も寶物寶見本位を忘れず、同時に古人今人の寶見記を參酌して書く、
是れが劔書の理想的書き方であることが、愈よ泌々と合點し得た。

引用元:加島勲・ 内田疎天「新刀押象集」p1,「序」

 つまり、著者らは「先人たちの記録を参考にして長所を取り入れつつ、芸術的ながらも要領を掴んで分かりやすい面白い刀剣書」を目指していたという事をうかがい知ることができます。原拠を正確に引用・検証し、考察を加えていく令和現代のアカデミックな研究調査方法とは異なる観点をもって制作された書物と言えます。
 ですので「新刀押象集」に杉原押形を収録するにあたり「山姥切由来」等の文章を削除したのは、序文でいうところの「劔書の理想的書き方」にそぐわなかったから……かも……?

 ここで、山姥切国広の発見に関係する人物たちの情報を、年表形式に整理してみます。

1-3.山姥切国広&関係する刀剣研究家の情報年表

soubi「化け物斬りの断章」p9「山姥切国広の発見に関する情報年表」より

※「刀剣乱舞」には「山姥切長義」という付喪神のキャラクターが登場します。刀剣「本作長義(以下58字略)」に「山姥切の名はもともと長義の刀であったのではないか」という佐藤氏らの言説・考察を参考にしたであろうと考えられるキャラクターです。
 刀剣界で「山姥切という長義」が明らかに認識されていたとしたら、昭和10~40年のあたりだと思われますね。

 佐藤氏は、山姥切という号はもともと国広の刀のものではなく、本歌である長義の刀のものだったのではないか、と断定を避ける形で考察を加えました(堀川国広とその弟子)。

 なぜか。
 佐藤氏は生前に「山姥切由来」文書を発見できなかったからではないでしょうか?

 これは筆者の推察に拠るところが大きいのですが、加島・内田両氏が杉原押形の文章を一部削除して自著に掲載したことで、「山姥切由来」の存在が佐藤氏含む後世の研究者にうまく伝わらなかったかもしれません。 

 佐藤氏は「新刀名作集」にある杉原押形を元に「国広大鑒」の山姥切国広の項を執筆したそうですが、崩し字の文書を見落としたか、解読できなかったか、あるいは、見たのは「新刀押象集」の押形だったのに誤って「新刀名作集」と記載したか……
 理由は不明ですが、とにかく何らかの理由で「山姥切由来」を見つけられなかった。

 国広の刀が山姥切と呼ばれるに至った物語。それを知ることができなかった刀剣研究家たちは「信州」「山姥」などのワードから、戸隠で鬼女を斬ったという「紅葉狩」の物語を連想し、長義の刀に託したのではないでしょうか。 

 「山姥切由来」は佐藤氏が他界する3年前、刀剣研究家の福永酔剣氏が再発見して発表しましたが(日向の刀と鐔)、昭和時代当時、SNSは存在せずパソコン通信も一般化されていません。見つけたものを全国の愛刀家たちに共有するのは現代よりもはるかに困難を極めます。
 したがって、写しの刀に新たな価値を見出し、文化財登録へ並々ならぬ貢献をした佐藤氏は「山姥切由来」の存在を知らぬまま、もしくは最新研究としてまとめる前にこの世を去った……かもしれません。

 こんにちの文化庁のデータベースの解説文は福永説ではなく、佐藤氏らの説を採用しています。刀の名の由来のみならず、来歴に関しても同様です。杉原氏が三居翁なる人物から聞いて押形に記録したものと、井伊家の旧家臣家の人が本間薫山氏に山姥切国広を持ち込んだ際に語った話(寒山刀話)、2つの来歴のうち、データベースで採用されているのは後者です。
 とはいえ、古い記録が新発見されたとしても、その情報が必ずしも正しいとは限らないんですよね。山姥切国広の来歴はまだまだ研究の余地があると思います。

 というわけで、現時点でもっとも古い山姥切国広の名の由来は、大正9(1920)年に制作されたと思われる杉原押形に記載されていたが、後世の刀剣書では削除されたことがあり、文化財指定から13年後に福永氏が自著の中で改めて発表した、という変遷をたどっていることがわかりました。


 問題はここからです。
 杉原押形よりも100年前、江戸時代後期の秋田県で非常に似た物語があったことを発見しました。

▼2.東北の山姥・山姥打ちの刀

 「雪の出羽路 平鹿郡(ゆきのでわじ ひらがぐん)」という書物があります。江戸時代後期の本草学者である菅江真澄(すがえ ますみ)が秋田藩の公的事業として編纂を行った地誌の一つです。文政5(1822)年の奥書を持つ直筆本は、秋田藩の藩校である明徳館に献納され、1991年に「自筆本真澄遊覧記」の一つとして国の重要文化財に指定されました。
 この中に山姥切国広の物語と非常に似ている奇談が収録されています。

2-1.遊士権斉と山姥の伝説

 慶安の頃、ある浪人が身重の妻を連れて陸奥国より出奔して来た。文字山中にて妻はにわかに産気づき、子を産んだ。困り果てた妻を労わり、草を敷き詰めるなどしているうちに陽が沈んでしまった。段々眠くなった浪人は傍らにあった岩を枕にして眠りについた。

 何か物音がして浪人が目覚めると、長年、浪人の家中で召し抱えていた下女のような若い女がどこかから出てきてかいがいしく妻を助け労わっていた。これは不思議なことだと思っていると、女は赤子と妻をむしゃむしゃと食べてしまった。「これは山姥というものか!憎き奴!」と刀を抜き放ち、浪人は妻子の仇を確かに打ち攻めたが、化け物はまったく取り合わず浪人を
見た。その眼は鏡のように光っていた。浪人は身の毛がよだち、あまりのおそろしさに付近の木の梢にのぼったがそれが結果的に命拾いとなった。夜が明けるのを待って木から下りると妻の亡骸は骨しか残っていなかった。

 化け物がまだ隠れ潜んでているのではないかと恐れた浪人はその場所から逃げ出し、人里を求めて何日もあちらこちらをさまよった。やがて出羽国に来て平鹿郡の角間川村に至った浪人は、将来を思い煩って浄蓮寺の弟子となり、名を「権齋」と改めた。権齋が山姥を打った刀は二尺九寸ほどの長さ
の肥後守國康の作だろうという人がいる。その刀は角間川のとある家で蔵している。
 権齋が山姥と見た化け物は狒々などというものではなかっただろうか。
 権齋はその後角間川の地で亡くなった。人々は塚を作り、後にそこに碑を建て「権齋遊士ノ墓」と記した。

菅江真澄. 雪の出羽路 平鹿郡. 秋田叢書 第5巻. 秋田叢書刊行会. p109~110. 1928.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174064(参照:2023-08-06)より
※底本は明徳館本

2-2.現存する遊士権斉塚を見に行ってみた

 旧角間川村、現在の秋田県大仙市角間川町地区に「遊士権斉塚」と刻まれた石碑があります。

↑ 遊士権斉塚 石碑正面
↑ 遊士権斉塚 石碑右側面 下部
↑ 遊士権斉塚 石碑右側面 上部

 石碑がある場所は権斉が弟子になったという浄蓮寺(同名の寺院は角間川町地区にあります)ではなく、新町稲荷神社という神社の境内です。周辺で「石碑イコール権斉の墓石」を証明できそうなものは見つけられなかったのですが、石碑の右側に「文政六■■七月」と年紀のようなものが彫ってありました。

 池田光氏の先行研究(※1)によると「文政六癸未七月黒丸惟孝」と刻まれているようです。彫られた年紀を素直に信じるとすれば、この石碑は角間川村で代々首長を務めた黒丸家の七代目・黒丸惟孝が関わって文政6(1823)年に作られたものになります。
 ただ、菅江真澄が「雪の出羽路」を完成させたのはその前年のことですので、やっぱり「遊士権斉塚イコール権斉の墓」とは言い難いように思います。

 権斉が肥後守國康の刀で山姥を打ったという内容の奇談と、山姥切国広の逸話はかなり類似性が高いと思われます。
 したがって、筆者は「山姥切国広の逸話は実際に起きた出来事を脚色したものではなく、露見してはならない真実を隠すために作られたカバーストーリーでもない、先行作品がある創作物語」ではないかと推察します。

 離れた土地で似たような物語が記録され、そしてそのタイミングに100年近くの隔たりがある……そこには2つの物語を繋ぐ何らかの媒体があったのではないでしょうか。
 
 ……という仮説を立てたところでいったん本稿は〆たいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。

 なお「山の中で妊婦と赤ん坊を食った化け物に刀で立ち向かう」話ですが、菅江真澄の記録よりも古い記録が存在します。江戸時代初期の文学に類話が複数あるのです。
 そちらの調査結果については冊子版「化け物斬りの断章」に収録しました。2024年1月頒布予定の新刊にも収録します。

▼本記事における参考文献

※1:池田光「何を問う 碑」仙北新聞. 1998年1月1日. p6

■近世文学関係

・堤邦彦. 江戸の怪異譚―地下水脈の系譜. ぺりかん社. 2004
・今野達. 遊士権斎の回国と近世怪異譚. 専修国文24号. p1~20. 1979
・潁原退蔵. 近世怪異小説の一源流. 江戸文芸研究 . 角川書店. p27~37. 1958
・堤邦彦. 近世怪異小説と仏書・その2: ー亡婦復讐語・食人鬼説話を中心としてー. 藝文研究51号. 1987
・堤邦彦・鈴木堅弘(編). 俗化する宗教表象と明治時代 縁起・絵伝・怪異. 三弥井書店. 2018

■刀剣関係
・文化庁. 国指定文化財等データベース「刀〈銘九州日向住国広作/天正十八年庚(刀)弐月吉日平顕長(山姥切)〉」. https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/6656 (参照:2023-08-06)
・セツカ. 水晶ノ粉ヲ以テ- 国広研究の変遷から本丸の彼らを考える-. 自費出版. 2019
・さよのすけ. 山姥切考察本. 自費出版. 2019
・原史彦. 「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討. 金鯱叢書 第47集. 2020. https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinkososho/items/kinko_sosho47.pdf (参照:2023-08-06)
・福永酔剣. 日向の刀と鐔. 刀苑社. 1975
・佐藤貫一. 寒山刀話. 東京出版. 1973
・佐藤貫一(編). 堀川国広とその弟子. 伊勢寅彦. 1962.国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/2496972 (参照:2023-08-06)
・内田疎天・加島勲. 新刀名作集. 大阪刀剣会. 昭和3.国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/1189839 (参照:2023-08-06)
・加島勲・ 内田疎天. 新刀押象集 上巻. 大阪刀剣会. 昭和10.国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/1174337 (参照:2023-08-06)
・日本美術刀剣保存協会(編). 国広大鑒. 日本美術刀剣保存協会. 1954.国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/2483062 (参照:2023-08-06)
・本間薫山(監修). 刀影摘録 神津伯押形. 日本美術刀剣保存協会・刀剣春秋新聞社. 2006

■地誌関係
・菅江真澄. 雪の出羽路 平鹿郡. 秋田叢書 第5巻. 秋田叢書刊行会. p99~485. 1928.国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/1174064 (参照:2023-08-06)
・大仙市立角間川小学校. 過去から今をそして、未来を…自分を…角間川の物語. http://www.edu.city.daisen.akita.jp/~om-kakusyo/pdf/k-history.pdf (参照:2023-08-06)

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