小学校の新興宗教

小学校の頃、新興宗教グループのようなものに入っていた時があった。といっても、同級生が立ち上げた子供のゴッコ遊びの域を超えないものではあったのだが。

教祖役のリーダーとその他3人、計4人がメンバーだった。当時ジャンプで連載していた『ゴッドサイダー』という漫画を教義の下敷きとしていた。そして日々、体育館やプールなどで「見えない敵」(しかし、我々だけには見える設定)と戦っていた。また、廊下などでメンバー揃って祈祷するという行為を行い、一般人の友達に、心配や「止めた方がいい」との忠告をされたりもした。

ただ、中に入ってみるとわかるのだが、「我々だけが真実を知っている」と思っているところに一般人から忠告(や迫害)を受けても、それは逆に信仰を続けていくモチベーションになる。受ければ受けるほど、「我々は、一般人の知らない真実を知っている」という優越感を感じ、自分たちの教義の価値が上がっていく。中にいる我々は、世間の無理解から尊厳のある孤高を保ち、人知れず世界の平和のために戦っている、という自己像を持つ。体験してみるとわかるが、これは非常に気分のいいものだ。

この新興宗教団体は半年くらい続いたような気がする。そして、内部崩壊が訪れる。原因は、教祖から与えられる承認の不平等だ。承認として、徳のステータスや特別な武器(もちろん見えないもの)が与えられるのだが、それが教祖のお気に入りのメンバーとそうではないメンバーとの間で、どうしても不均衡が起きる。割を食っているメンバーは当然おもしろくない。そして、不満を溜めた結果、他メンバーに「ズルいじゃん、もうやめね?」と誘いをかけ、教団は分裂することになる。

こうして私の新興宗教体験は終わりを告げたのだが、ゴッコ遊びとはいえ、その中で働く心理的な機微を体験できたのは為になった。これが大規模になり、社会的にも大きい組織になれば、その優越感はより大きいものになるだろう。小学生ではその要素が無かったが、その中での経済的なメリットも発生してくるだろう。

これらの機微を小学生時代に少数グループで体験できたことは、ある種ワクチンのようなものであったと思う。接種しておくことによって、逆に大きな病気にはかからなくなる。麻疹と同様に、大人になってからコロリと罹患してしまうとオオゴトになってしまいかねない。得てして、「そんなものには罹らない」と思ってる人ほど、足元をすくわれたりする。

でも思い返すと、あの時にプールから空に見えていた「大きな見えない敵」や、それと戦っているときのわくわく感は、なんとなく懐かしく輝いているような、そんな夏の思い出として残っていることも確かなのであった。


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