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ハーフっ子が語る、日本の「節目」を大切にする文化が人生に与える深い影響

人生ではじめてのPTA役員会議に出席しました。
ドキドキしながら参加したのですが、みなさん素敵な方で、ホッとしました。

PTA会議の中で、ふと出たのが「外国人の保護者の方に、どのように情報を伝えていくのか」ということでした。


わたしの子どもは今年が最後の年です。次の3月には卒園をひかえています。そのため、PTA会議の引き継ぎでも、卒園準備についてのお話が多かったです。

その中で「外国人の保護者に、そもそもの前提をお伝えする場をなんらかの形で設けることは大切だと思います」と、わたしも意見を出させていただきました。


わたしの母親は、西洋の人です。
わたしは生まれも育ちも日本ですが、母は違います。
そのため、幼少の頃から学校関係の行事にとまどう母の姿をずっと見てきていました。そんな経験から、出てきた言葉でした。

外国には(もちろん、国にもよると思いますが)、学校関係の行事がほとんどないのです。


入学式や卒業式、始業式や成人式など。

日本では、人生の節目に関わる行事がとても多いのだなあと、母の姿や言葉をとおして、わたしも感じていました。

「日本って、行事が好きよね」「どうしてこんなに行事が多いのかしら?」と母は首を傾げていました。「でも、こういった節目の行事があるのは、とても素敵なことね」とも。


わたし自身は、こういった人生の節目にあたる行事に対する思い入れは、最近になるまで、あまりありませんでした。あって当たり前。理由は知らないけれど、小さいときからあるものだから、当然のように、なんとなく参加する。「校長先生の話、今日も長いな〜。はよ終わらへんかなぁ〜」なんて、友達とぼやいたりしながら。

そんなわたしが人生の節目の行事の大切さに気づいたのは、わたしのレイキの師匠の言葉がきっかけでした。


日本では、昔から「節目」や「通過儀礼」というものを大切にする文化が根ざしています。

「節目」というのは、「終わり」と「はじまり」を明確に線引きするためのもの。

例えば、卒業式という明確な学生時代の「終わり」があって。そして、次のステップへのはじまりである「入学式」や「成人式」というものがある。

それがあるからこそ、わたしたちは日常を、ただ漠然と流れていくものとしてではなく、強弱や抑揚をつけて、大切に生きていくことができると思うんです。

そのようなお話だったかと思います。

そのとき、わたしは突然、ハッと気づきました。

「だからわたしは、25歳を超えても、まだ自分が『大人』『成人』であることをしっかりと認識することができていないんだ」と。


わたしは、成人式も、大学の卒業式も参加していませんでした。

成人式の時期は、海外に留学していたため、参加をせず。
大学の卒業式は、知っている人がほとんど参加しないことが分かっていたので、わざわざ参加する必要性を見出せず、参加しないことにしたのです。

わたしが所属していた大学の専攻は、8割外国人学生で構成されていました。卒業式のタイミングには、ほとんどの人たちの学生ビザが切れてしまっていたので、クラスメイトだった外国人学生のほとんどが既に帰国してしまっていたという背景があります。


当時は、成人式と大学卒業式に参加しなかったことへの弊害は、特になにも感じませんでした。そういった式典が、ただの通過儀礼、形だけのものだと認識していたからです。

しかし、師匠の話を数年後、27歳になったころに聞いたとき、わたしはハッとしたのでした。

そう。

わたしは、20代後半になっても、まだ19歳の延長上にある感覚で生きてい他のです。

もちろん、年齢的には歳を重ねていました。けれども、それはあくまでも「ただの数字」。

精神年齢といえばいいのか。感覚や価値観といえばいいのか。
どう表現すればいいのかは分かりませんが、確かに当時のわたしは、自分がまだ子どもの延長であるような。大人にならないといけないことは分かっているけれど、その踏ん切りがつかないというか。その「大人に切り替わる」タイミングのようなものを、逃してしまった感覚を漠然と抱えていたのです。


「19歳くらいの延長線上」というのも、とても分かりやすい感覚だったなと、当時はじめて気づきました。

先ほども書いたように、わたしの母は西洋人。母の国では、子どもは18歳で成人を迎えます(今は日本でも18歳で成人に変わりましたね)。

そのため、わたしが18歳の誕生日を迎えたとき、漠然とではありますが、母の中で「あなたはもう大人よね」という、ある種の「子育て終了」の安堵と手放しがあったのです。そこと連動して、家庭内でのみ、わたしの子ども時代の卒業のタイミングが、突然にやってきました。

しかし、わたしが日常生活を送っている日本という社会の中では(当時はまだ)18歳は、未成年。一歩家を出れば、わたしたちは「子ども」「未成年」として扱われていました。成人に達するまでには、まだ2年ある。

わたし自身、ずっと日本の「20歳で成人」の価値観の中で育っていたので、誕生日の日に突然母から言い渡された「あなたももう大人ね」の言葉は、わたしの感覚の中に沁み入ってくることはなかったのです。

そうして結局、わたしは18歳から19歳までの2年間を、「子どもでもないけれど、まだ正式には大人でもない」どっちつかずの感覚を感じながら過ごしました。

そのまま19歳で海外に留学。
そして日本に帰国後も、大学卒業式に出席することもなければ、そのまま企業に就職することもなく、沖縄に単身引っ越して、旅人としての日々をスタートさせていました。

そんな「ふわふわ」した18歳からの時の流れの中で、わたしは知らないうちに、明確な「子ども」時代の終わりも、「大人」時代のはじまりも、経験することのないまま、年齢だけを重ねてしまっていたのです。


わたしが漠然と感じていた「自分が成人であることの実感がとぼしい」という感覚は、成人式・大学卒業式という、人生においてかなり大きな人生の節目の通過儀礼を経験していなかったからなんだと、レイキの師匠の言葉を聞いたとき、はじめて理解することができたのでした。

そしてその日から、わたしは「自分はもう大人なんだ」「もう子ども時代は終焉を迎えていたんだ」という自覚を、潜在レベルでも持つことができるようになりました。



時が経ち、わたしの子どもが今度は「卒園」という、はじめての人生の節目を目前にひかえる時期になりました(といっても、まだ1年ほどはありますが… 気が早いですね笑)。

自分が大人になってはじめて、こうした「なんでこんなものあるんだろう?」「意味なくない?」と思っていた節目を祝う通過儀礼に、とても大切な意味があることを知りました。

節目を祝う通過儀礼や祝典というものは、そこに参加するすべての人たちが、無意識レベルで人生を整理し、ときには見切りやあきらめをつけたり、心持ちを新たにするための、とても大切な機会なのです。


こうした人生の中の節目を祝う文化は、日本独特のものなのかもしれません。もちろん、学校関連の行事だけではなく、四季折々の節目を祝う習慣も、いまだに日本には残っています。

そのすべてが、とても大切なものなのだということ。
それらをちゃんと「節目」として意識して。その日は、ほんのすこしであっても、気持ちを引き締めて過ごしてみる。
それだけで、人生の豊かさというものが増えていって、より一日一日を大切に、噛み締めながら、生きていくことができるようになるのかもしれません。

改めて、一年をとおしての「節目」の行事や通過儀礼といったものを、大切にしたいな、と感じた出来事でした。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ねう

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