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Straight Line あるいは線庭

2012年、正月早々、「現代美術展 in とよはし」の準備に追われていた。

会場の豊橋市美術博物館が建つ、吉田城趾(豊橋公園)の一画には、その歴史を物語る石が多数残る。あるものは石垣の一部、兵舎の門扉と想像できる切石がある。どこで使われたのか蹲や、2頭のライオン像まである。それらを美術館の前庭から裏庭まで約100m、館の中心を貫き、一直線に並べようというプランの作品だ。

 芸術は自己表現である。そこで問われるのは独自性であり、個人性である。自ら加工した石はかけらもない。そればかりか、線上の中庭には開館以来鎮座する、私とは趣味の違う石彫もある。線を中断させる池や通路以外にも、様々な障害となりうる施設があり、その上、床や地上面には模様まである。それらと、一旦、対峙する姿勢を見せれば、それら全てが障壁として立ちはだかることになる。

 妥協でもなく、あきらめでもなく、一切を排除せず、全てを許容し、委ね。選ばず、迷わず、考えず、ただひたすら並べる。しかし、人は考えを止めることはできない。作為無くして、石は一直線に並ばない。ではどうすればよいのか。石を一直線に並べると決めた、その刹那に、その後、起こりうる全てを許容できるプランであったか否か、それが全てで、その後の推敲などは、枝葉末節に過ぎない。炬燵に潜り込み、プランがフッと湧いて出てくるのをまつばかり。出なければそれまでである。



俳句同人誌 景象 表紙のことば(90)

「Straight line あるいは線庭」を観た高校一年生、16才の素晴らしい文章が豊橋市美術博物館友の会だより「風伯」に掲載されていた。この若さで、彼女は芸術を正しく理解している。この一事だけで、制作した意義があったと思わせるほどの、一文だった。

単旋律を記す楽譜のように

味岡伸太郎「Straight line あるいは線庭」 
桜丘高校音楽科一年 小坂日菜子

私はしばしば元気をもらいたい時やリラックスしたい時に、CDや演奏会で音楽を聴くことがある。ドビッシーの輝くような音や、せせらぎのように流れるチャイコフスキーのメロディは、私にメ力モを与えてくれるような気がする。
私はこの作品を観たとき、それらと同じような感覚を覚えた。
豊橋市美術博物館の中を突っ切るように並べられた石の直線は、まるで単旋律を記す楽譜のようにも見えた。ぶれることなく、ただ真っ直ぐに並ぶ石。しかし、その石の中にひとつとして同じものはなかった。
以前、こんな話を聞いたことがある。
「音を演奏するだけでは“音楽”ではない。一つひとつの音符にそれぞれの思いがある。そのそれぞれ違う音符たちを、ひとつのフレーズにできたとき初めて“音楽”となる」
まさしくこれだった。音楽は私に“力”を与える。それはもしかしたら、音から“音楽”へ変わる瞬間に生まれるパワーのことではないか。そして、石から “アート”へ変わる瞬間。きっとこの瞬間が私に音楽と同じような感覚を与えたのだ。美術のセンスはまるでなく、美術作品など殆ど観たことがなかった私だ が、毎日接している音楽との共通点を私なりに見つけることができ、少し嬉しかった。
この直線の最後、林の手前には灰色の石が置いてあった。特別大きいとか、変わった形ではなかったと思う。あえて表すなら、素朴かつどこか威厳のある石だっ た。しかし、その一方で、まだまだその先に続いていきそうな雰囲気の漂う石でもあった。まるで、私たちを林の奥のアートの世界へ誘うように。
もしあなたが林の前で立ち止まっているなら、是非その奥に入ってほしい。アートは決して縁遠いものではなく、きっとあなたに“力"を与えてくれるから。
(豊橋市美術博物館友の会だより 2012年 春号 Vol.82 風伯より転載)

小坂日菜子さんの名前は、いつまでも記憶にとどめておこう。いつの日にか、この名前でのコンサートがあるだろう。この感受性がどのように開花するのかそれが今から楽しみである。

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