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自分を受け入れること、癒すこと

今日の夏らしい空。飛行機雲がひとすじあった。

noteを毎日ひとつ、ではなくて随時好きな時に更新する。と決めたら急に心が楽になり、かえって、書きたいことがいくつも頭をよぎるようになった。そういうもんか.....笑。

創造性というのは。

海辺で過ごした日々

昨日の記事を書いて、以前海に通っていた時のことを思い出した。あの時間はなんだったのだろう?と考えたことはなかったし結構通った時期は長かったのだけど、つまりあれは自分が過去の傷などから立ち直るための時間でもあったと気づいた。そのためには海や太陽に助けられながら一人でいることが必要だったのだった。

今もそれと同じく、時間が必要なのだ、と。ここまでが昨日書いた話。

「魂の操舵」のこと

ついつい、焦りがちになるのは、はい、これを終わらせました、次!みたいになっているからなのかもしれない。

退職を決めたのはこの春で、それも時間をかけてようやく決断できたことだ。もうずいぶん前のことのようだけど、考えてみればまだ退職してから三ヶ月くらいしか経っていない。

ジャン・コクトーの『ぼく自身あるいは困難な存在』という本の中に、(確か、「幽霊屋敷について」もしくは、「魂の操舵について」の章だったと思う)急に何かをそっくりそのまま動かしたりすると人は必ず何かを失う。というような節があった。

引っ越ししても二ヶ月くらいは魂がついてこないとか。

ちょっと記憶で書いているのでうまくニュアンスが伝わらないと思うけれど、それと同じで、心を無理やり動かすことはできないのではないかと思った。

「傷は癒えた。さあ出発しよう。」

だなんて、意志では決められない。

それは意志ではなくて、心が決める。

それを無理やり動かそうとするからやっぱり心がついていかない。特に内的な問題については、内的なものを引っ張る心が動かなければ・・・身体だけが動いても仕方がない。

いやむしろ、本来は、身体は心に従って動いているのであり、それを無視し続けてしまうと・・・・何が起こるかもうわかるよね。

よく聞く”寄り添う”っていうのは。

あまり好きな言葉ではないけど。「寄り添う」という言葉。

心に寄り添う、というのがまあ、表現としてはわかりやすいのかもしれない。寄り添うというよりも、じっと待つ、という感じなのかな。

植物や動物を見ていると、止まっている時間がある。動物は傷を受けるとじっとして傷が癒えるのを待つ。人間だって外傷や病気ならそうするだろうけど、それが心の問題になってくると、目に見えないものだから、実はまだ動けないのに、元気なふりをしてしまうことがある。

傷ついているのなら、やっぱり、それが癒える時間はじっとしているべきなのだろうと思う。

それだから、いつまで、というのはわからない。

心が癒えるまで待つ

やっぱりここへきて再認識したのは、私は前職で平気なふりをし続けていたけれど、本当は、毎日がとてもしんどくて、怖くて、悔しくて、おじさんたちのいじめが本当に辛くて、めちゃくちゃ傷ついていたんだけど、それを隠し続けたし、自分にも平気なんだと言い続けていた。

周りの人に愚痴を言ったり逆におじさんたちの悪口を言うことでスッキリしようとしたけれど、それは心の傷を深めるだけだったし何にもならなかった。産業カウンセラーの人と何度も話して、証拠を集めて訴えましょう、といってくださったけど、それもできなかった。

結局、結果的にではあるが、逃げることになってホッとしたと同時にそれで良かったのか、解決しないまま戦わなくて良かったのかと自分の「意志」が問う。自分をそれで許していいのか?と。逃げたんじゃないの?と。

いや、それは見栄だし、逃げてもいいんじゃないか。というか逃げたわけじゃなくて結果的にそうなったのだからもういいじゃないか、そもそももう戦えないんだから。ともう一人の自分が言う。

そんな自問自答(葛藤とも言う?)がずっと繰り返されているけど、それもまた、今自分の中で起きていることだから、そのままでいいのかもしれない。

海を眺めていた頃はそんな葛藤やら全てが浮かんでは消えていった。

うん、もうちょっと時間がやっぱり必要だ。

そしてこれを、身近な人にいちいち話すことではないので、noteに書いている。海も行けないし。

時間としては長くかかるかもしれないけど、それはそっと私の内的なところで続いていて、これからもう少し続くと思う。それが自然に消えるまで、じっと待つのが一番の近道なんだと。

私にとっての、「受け入れること」

受け入れると言うのは、自分がいまだに癒えていない事をまず受け入れる事からスタートするのだったんだね。もう何年も経ったのに、まだ傷癒えてないの?もう遠くにも来たんだし今は幸せなんだからもう忘れたらいいじゃん。などとと言う「過酷な問いかけ」を自分自身にしていた。それも自分に嘘をつくことの一つだった。

・・・当たり前のようで全然気づかなかった。

これは、noteで色々な方が自分の経験を綴られていて、その中には多く共感できるものがあって、私なりにそれらが心の中で消化されてでてきたことでもあって・・・ありがたいのです。書くのはちょっと恥ずかしい言葉ではあるけど、こんな思わぬところにも愛はあったんだなと。



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