本当の声、疲労。セネカ『人生の短さについて』から

もうすぐ第一Qの終わりが見えてきて、疲労もピーク。
そんな中、ガーミンのボディバッテリーは上がったり下がったりで寝る時は大抵、使い切っていて、寝ても戻らない日が多い。
講義の時はもちろん、なぜか、研究室に一人でいるときも、ストレス値がマックス。必死に講義の準備していたりするからか。新たな科目の1〜2年目というのはこういうものだとは思うが、ともかく、ボディバッテリーの消費がすごい。帰りは大抵、フラフラ。

なぜこんなにボディバッテリー消費=疲労困憊 なのか?

先日、セネカの『人生の短さについて』を読んでいて、面白い箇所があった。人生が短いのは、自分の人生を生きていないから=人生の時間を浪費しているから。この本の主旨はそんなところだが、人生の時間を無駄にしている人=閑暇(かんか)なのに多忙な人についていろんな例が述べられている。(ここで多忙な人 というのは、セネカの考える、振り回されている無駄な時間を指す。)その中の一つ。

あなたは、こんな人を、閑暇な人と呼ぶだろうか。(中略)すなわち、歌を作ったり、聞いたり、習うことに夢中になっている人たちだ。そもそも、声というものは、飾り立てずにそのまま出すのが最も優れた簡潔な方法であり、それが自然に適っている

セネカ『人生の短さについて 他2編』光文社古典新訳文庫より

セネカにとっては、歌に関わる活動も人生を無駄にしている、というわけなのだが(私はそれには疑問があるが)、声を飾らずに出す、というのが自然に適っているとは、なるほどと思った。

先日たまたま、エゴグラム というネット上のテストを試しにやってみた。これは、性格上の特徴がいくつかの指標の上で数値化されるもので、心療内科などでも活用されているらしい。私がやったサイト上では、仕事上の性格と、プライベートの性格がそれぞれ結果として出るもので、二つが大きく違っていた。
結果のところに、仕事とプライベートで随分の違いがあるので、もしかしたらどちらかで無理をしている可能性はないか?
ということ。

なるほど、なるほど。いや、もしかしたら、明らかに、?、仕事では無理しているのかもしれない。

その無理というのは、ワーカホリックとかそういうことではなく、自分を押さえて、自分を出さず、自然に振る舞えず、人の目を気にしているという点。

その時に、自分は大抵、地声で話していないと。

明らかに高い声を出している。

講義の時は、どうか?

高くはないとしても、やはり少しは取り繕っている気がする。

こんな時は、本来の自分ではなく、何らか、外的な要因で、別の自分を演じている時なのかもしれない。と思った。

・・・そりゃ疲れるわ。


それで思い出したのは、一緒に着任した同僚の先生。(女性)

この人の声を初めて聞いた時、すごく好印象だった。
この人は、小さくて綺麗で素敵なのに、声がちょっと野太い(失礼!)
いやいや、全く悪い意味ではなくて、そのまんまの声を出している感じ。
これがとても気持ちが良いのである。

聞いていても、そうなのだ。

取り繕った声というのは、やはり耳障りは良いかもしれないけど、何か伝える上で、弱い気がする。

まあ、彼女も私以上に毎日お疲れなので、別の要因もあるのだろうが・・・(彼女も子育てと両立中な上、科目数がかなり多い💦)

時々、心の奥底にある気持ちを言葉にするときに、声が震える。

それはこれまでに、何度かしか経験がない。

そのくらい、ある種の恐怖感というものが、本当のことを話すことにつきまとうのは、個人的な問題なのか、社会的な問題なのか。はたまた、世代的な、時代的なものなのか。

今、何か揉め事を起こすとそれはネット上で簡単に拡散し炎上する。酷い場合には、晒される。犯罪など尚更だ。一生消えない。それを、”デジタル・タトゥー”というらしいが、個人のことがより速い速度で拡散し、消えないこの透明化社会では、恐れを抱くものなのだろうか。

わからないけど、なるべく地声で過ごしたいものだなと思った。

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