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「東京差別」について

最初聞いた時には「東京砂漠」かと間違えたが、よく聞くと「東京差別」であった。

東京に住んでいる人(私もそう)を忌み嫌ってバイ菌(というかウイルスか)のように扱い、差別するという意味らしい。

もう県外移動について、国としてはちゃんといろいろケアしていれば問題ないということになったというのに。

悲しい言葉ですね。

新型コロナにかかるかかからないかなんて、神のみぞ知ることであり、人間ごときが左右できることではない。

もちろん相対的に見れば、対策をきちんとしている人とあまりしていない人はいるし、きちんとしたほうがよいのは間違いない。

しかし、きちんとしている人だって罹患する。罹患した人はきちんとしていない人ということはない。

そもそも「きちんとする」と言っても完璧なわけでもない。「きちんとする」と「あまりしない」の間には無数の段階があり、どこからがきちんとしていて、どこからがしていないのかには明確な線はない。

要は人間、極端な例を別とすれば、どんな人でもそんなに大差はないのではないかと思うのだ。

例えば、マスクをすることと、口を閉じて黙っていることの間にそんなに大きな違いはあるというのか。マスクをしてたら、ぺちゃくちゃ喋ってもいいのか(いいと思いますが、違いはあるのだろうかということ)。

それぞれが「できる範囲」(これはその人の事情を知らない他人が決めることではない)で相手を気遣って生活をしていれば、それで最低限の社会的義務は果たしているのではないか。

それ以上の責任を個々人に押し付ける権利はあるのか。押し付けようとする人は、その人に対して何か補償でもしてあげるのだろうか。店を休業させるなら補償させるというように。

そして、一度罹患すれば、神の天罰でも下ったかのように見て、「とんでもない人」のレッテルを貼る。明日は我が身であることも知らずに。

誰かにレッテルを貼ることで、名状しがたいという不安を減らし、さらにそれを遠ざけることで安心感を持つという心理的作用はわかるが、それは概ね幻想だと思う。

微量の効果はあるかもしれないが、東京を(今回は東京のことだけ言っていますが、中国人でも、韓国人でも、イタリア人でも、アメリカ人でも、夜の街(って・・・)の人でも医療従事者でもなんでもそう)差別したことによって生まれる禍根、そこで生まれる分断、信頼感の喪失の方が100倍深刻なのではないかと思う。

社会に他者と生きるということは、リスクを取って生きるということ。

誰かと共生するということは、その人が行うことによって被害を受けるかもしれないという可能性を甘んじて飲み込むこと。

リスクを取る以上、ダメージを受けることはある。僕だって、どんなに気をつけていても、これから先コロナに罹患しないとは限らない。

仕事や生活をしていれば、誰だってそれは同じ。

怖いけど、みんなリスクを犯しながら、社会に貢献しているのだ。

それなのに、そんなに完璧な安全を自分だけが得たいというのであれば、深い山奥や孤島にでも行って、自己完結した暮らしをすればいいのにと思う。そうすれば、より完璧な安全安心が得られるのではないか。

社会や世界を支えている無数の人から(当然、東京の人もここに入る)、恩恵だけを受けておいて、それが空気のようになってしまって気づかずに、恩知らずを働いている人は残念だ。

コロナ「禍」と言うが、コロナが人類にもたらした災いは、結局のところ人々の間の不信感の醸成、分断の促進ではないかと思う。

コロナに勝つというのは、コロナにかからないということではなく、コロナの対策をしていくことで、人々の間の信頼を失わないことではないか。

嗚呼・・・

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