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面白い幻想、つまらない現実

カエサルも「ほとんどの場合、人間たちは、自分が望んでいることを喜んで信じる」(ガリア戦記)と言っている。

先日、テレビでみんなが信じたがる嘘歴史をテーマとしていた番組があって面白かった。

否定されていたものの例

・源義経=チンギス・ハン説 (マンガ「ハーン」は面白いですが…)・東北古代王朝(東日流外三郡誌)・維新の志士集合写真(フルベッキ群像写真)

すべて「もし本当にそんなことがあったらワクワクする」ものであり、だからこそ何度否定されてもしつこく残り続けていた。

ベストセラー「陰謀の日本中世史」を書いた呉座先生が最後に、歴史のロマンとか、楽しんでるだけだからといって、そういう面白い幻想は放っておけばよいというのはダメだとおっしゃっていた。

そう思う。

なぜならば、面白い幻想は現実に浸み出してきて、現実世界を動かしてしまうから。

例えば、源義経=チンギス・ハン説は、日本の大陸進出における「なんとなく」の正当性を支持する空気を作る一つの要素になったらしい(その番組曰く)。

いくら面白くても、嘘は嘘。

小説やマンガなど、明らかにフィクションであるという枠組みの中で展開されるのであればともかく、真実の顔をして語られる物語は害悪をもたらすことがある。

嘘から導きだされた思想や考えは、真実から離れていくから、そういう思想に基づく行動は真実の世界にある問題を解決することはできない。


ということはみんなわかっているのだが、なぜなかなか面白い幻想が消えないのか。

それは、残念ながら多くの場合は、現実とはつまらないもの、都合の悪いものだからだろう。

経営者の語る成功譚はたぶん大体後付けで再現性がない。日経の「私の履歴書」とかで、いっつも青天の霹靂で社長に任命されたりするが、んなことなかろう。

アメリカができるときに、「マニフェスト・デスティニー」とか言っていたようだが、ネイティブ・アメリカンからすれば、ふざけるなという話で、単なる侵略や虐殺であることは明白だ。


結局、ちゃんと客観的な現実を見据えることができる人というのは、現実のつまらなさや都合の悪さを受け止める勇気がある人なのだろう。

しかし、現実を見つめ過ぎるとしんどい。例えば「生きる意味」などない(作るもの)。ニヒリズムに陥ってしまっては、それはそれでしんどい。

だから、ほとんどの人は(僕も)面白い幻想に時々逃げることで、つまらない、都合の悪い現実に対峙するエネルギーを得ているのだ。

嗚呼。

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