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やりたいことがわからない病


「やりたいことがわからない」

本当によく聞くセリフだ。でも、やりたいことがないと感じてしまうのは当たり前だと、わたしは思っている。


わたしたちは「学校」という場所で、与えられたことを「とりあえず考えずにやりなさい」と言われ、嫌だと言えば「わがまま」「忍耐力がない」と言われてきた。自分が楽しい!と思うことをしようとすれば、「今は他にやることがあるでしょ」「勉強しなさい」と言われてきた。

知的好奇心を無視され、与えられたものをこなす「ベンキョウ」という行為のみをさせられてきた。テストのための試験勉強とか、いい大学に入るための受験勉強とか。いつもなにかの「準備」として「ベンキョウ」をする。(本当は学ぶこと自体が目的で尊い行為のはずなのに。)

その結果、準備準備で(本番は来ず)、大学に入ってから、もしくは就職をする前に、自分は何のために頑張ってきたんだろう?何がしたいんだっけ?という焦燥感に駆られる。

「すき」も「嫌い」も受け入れてもらえず与えられたことに従っていれば、そりゃ、どんどん自分の感情やわくわくに蓋をしていくだろう。

want(~したい)ではなくshould(~ねばならない)思考になった結果、自分はなにが好きなのか嫌いなのかすらわからなくなる。

だから、やりたいことがわからないのはある意味当たり前のことだ。


その結果、「一般的な価値」に従うのが一番楽になる。例えば、偏差値が低い大学よりは高い大学の方がいい、と思ってしまう(偏差値は人気ランキングでしかなく、学びたいことを研究している教授がいるかどうかもわからないのに。)「インターンに行った方がいい」と聞けば、じゃあ行こうかなと思ってしまう。

つまり、自己決定がどんどん自分のものではなくなっていく

一般的にいいとされることをしたからと言って、幸せになれるかなんてわからないんだから、「一般的な価値」に従っている限りはずっと、なんとなく満足できないままなのではないだろうか。


(最近、都会から田舎への移住が流行っているのは、東京という都市にいると「一般的な価値」がより顕著で、どうしてもそれに乗っからないといけないと不安に駆られてしまうその不安から逃れられるからなのではないか、とわたしは踏んでいる。)



そして、わたしが日々の生活のなかで本当に胸が痛くなる瞬間がある。それは、電車やスーパーでの親子の会話を目撃するときだ。


車窓を興味深そうに眺めていても、少し靴が座席に触れただけで「ダメ!!!」と怒鳴り散らしたり、スーパーで商品に手を伸ばしただけで「買わない物には触らないで!!!」と泣きじゃくる子供を引きずったり。「ダメ」が条件反射になっている。

その瞬間こそが、子どもの「好奇心の芽」が出かけている瞬間なのに、スマホをいじって子どものことを見てもいない親に限って、いとも簡単にその芽をつぶす。(もちろん親にも親の事情があるけれど。)

わたしたちだって、興味があるから商品に触るんだし、裏の表示を見て買うのをやめたりする。子どもだって理由もなく行動に移すわけがない。(子どもを下に見すぎている。)それに、みんな人に迷惑をかけながら生きているんだから、ちょっとくらいなんてことない。

「なんで車窓の何に興味を持ったのか。」「なんでその商品に興味を持ったのか。」聞いてあげるだけで、子どもの興味を発見し、やりたいことにつなげる可能性すら秘めているのに。

芽をつぶしておいて、「うちの子何にも興味持たないのよ~」と愚痴をこぼす親も少なくないのではないだろうか。


砂のお城が本当のお城に見えたり、ショッピングモールのプレイルームが夢の国のようで一日中いたいと思ったり。誰もが想像と好奇心に満ち溢れていたはずなのに。欲求や感情のない人間なんていないはずなのに。それすら感じなくなるなんておかしい。「やりたいことがわからない」が当たり前の世界なんて悲しすぎる。


あぁ、この子たちもこうやってたくさんの「ダメ」を繰り返されて、「やりたいことがわからない」病にかかっていくんだな、と思うと本当に切なくなって、いつも車両を替えるわたしなのです。


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