見出し画像

一週遅れの映画評:『ヴィレッジ』無理矢理な理屈のことを、妄想と言う。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ヴィレッジ』です。

※※※※※※※※※※※※※

 各々の要素はわかるんだけど、その繋がりが薄い。薄いのに強引にひとつにまとめてようとしてるから「無理矢理だなぁ」という印象しか残らない作品でしたね。この『ヴィレッジ』は。
 
 んとね、地方にある小さな村が舞台で。そこには10年近く前にできた巨大なゴミ処理施設があって、それに対する補助金と施設自体が生む雇用でなんとか成り立ってるような状態。そこで働く主人公は周囲からイジメを受けているんです。そこに東京へ行っていた幼馴染の女性が帰ってくる、彼女はゴミ処理施設の広報として就職。
 そこで施設の知名度&好感度アップのため、子供たちの社会科見学を企画する。ひいてはその解説役に主人公を抜擢し、そこから彼の人生は好転していく……のだが。ってお話なのね。
 
 そのゴミ処理施設は裏でヤクザから廃棄物を引き取ってコッソリ埋めることで金を貰っている、しかもその元締めが村長の息子。でそのガタイが良いパワー系な村長の息子が主人公を率先してイジメていて、周囲もそれに加担している。
 なんでそんな状況になってるかって言うと、主人公の父親は昔ゴミ処理施設ができることに反対していて村八分にされてしまった。その結果、自分に嫌がらせを繰り返してきた相手を殺して、自分は家に火を放って死んでしまう。そうやって村に大事件を起こしてしまった男の子供として疎まれてしかないよね! みたいな空気が醸成されてしまってるからなんです。
 
 ここで、何か嫌な田舎の人間関係が持つ鬱陶しさやおぞましさ。をやりたいのはわかるし、最近そこそこ流行りの因習村みたいな空気を出したいのは理解できるんだけど、いやぁたかだか10数年前の話じゃあないですか。こう連綿と続く過去から地続きで、逃れられない村社会の気持ち悪さ、って言うにはちょっと近い過去すぎるかなぁ~。という感じがイマイチ拭えない。
 
 それと同時に、この村は補助金でなんとかやり繰りしてる状態だから、視察の人にはペコペコするしかない。それに加えて不都合な出来事は隠蔽しなくちゃいけない。ちょうど1年くらい前に見た『ノイズ【noise】』って作品もそうだったけど、

なんか「国からの補助金を得るのに必死で、それが村全体の倫理観を歪ませている」って構造は、まぁそういった村々から遠い人間にとって非常にリアリティを感じられる設定なんだろうなぁ……と言うか『ノイズ【noise】』は原作が2018年で、そのときでも「まぁそういう感じの作品よくあるよね~」って感じだったので、正直もう手垢つきまくりの設定ですね、とは思います。
 あれ、そういえば『ノイズ【noise】』とこの『ヴィレッジ』、同じ女優がヒロイン役やってねぇか? 私は人間の名前が覚えらんないんでアレですけど、なんか「田舎にいる唯一の若くて可愛い女性」感の最適解なんかねw

左:ノイズの黒木華 / 右ヴィレッジの黒木華

 でね、この2つの要素があんま繋がってないんですよ。村の狭い人間って嫌ねぇというのと、補助金のために必死な人たちって醜いねえってこう「村人がグルになって隠蔽に加担している」見せ方とかもなく、「こういうもんですよね、こっちもそういう感じですね」っていう別々の事象になってるんですよ。
 この作品において、この2つの要素ってかなり重要なバックボーンだと思うんですけど、そこに関連性が薄いから起こる出来事も「これは人間関係パート」「これは経済問題パート」といった感じで分断されていて、お話としての連続性がたびたび切断されてしまうんです。
 
 それに加えて、なぜか「能」がこの村には根付いてるんですけど……これの効果がイマイチわかんねぇ。なんか不気味なフレーバーとして能の雰囲気とかを使いたいのはわかるけど、正直そこにしか寄与できていないんですよね。いや、取り上げられてる演目が『邯鄲』だから、「あーこの”華やかな時は夢で、目を覚ますと何も変わっていない”というのと、一時は上手くいっていた主人公の人生も最終的には破綻していくのを重ねてるのねー」ってのがやりたいんだろうけど、別にそれほど効果的に使われていない
 その割には「能」関連パートがいやに長くて多いから、まぁ普通に退屈なんですよね。
 
 あとなんかゴミ処理施設の一角にポッカリと穴が空いていて、そこから「シュー、シュー」って奇妙な音が漏れてることに主人公が気づく。ただその穴を覗き込んでも何もない……っていかにもホラーっぽいフックを繰り出しながら、そこには特になんもないっていうw
 
 んーとね。主人公はイジメられながらも鬱憤が溜まっていて、そうなると自覚無く「シュー、シュー」って呼吸音を出してしまう癖があるんですよ。だからその穴から聞こえてる音は、本当は自分の声だったんだ。ていうのと、ヤクザから受け取った廃棄物、それを埋めていたことが発覚して補助金取り下げになってしまう。
 つまりここで「埋めて隠してきたものが、抑えきれず噴出する」ってのをやりたいのは理解できるんですけど、さっき話したように人間関係パートと経済問題パートの関連が薄いところに「これって同じことを表しているんです」ってやられても、あんまり物事が重なり合わさっていることへの衝撃とか感動が起きない。「なんか無理矢理、関連性を見つけてきたなぁ」って感じになるんですよね。
 
 ラストで主人公は補助金を貰うための隠蔽工作を迫られ、結果として村長を殺害して家に火を着けてしまう。追い詰められたところでブチ切れて人を殺して火を着けるっていう「父親と同じことをしちゃったね!」というのを、『邯鄲』における「目を覚ますと一晩の夢で、何も変わってない」に重ねてるんだけど……いやでも親子だから時間は流れているし、「何も変わってない」どころかマイナス方向にブッちぎってるから「それ例えとして成立してるかぁ? なんか無理矢理じゃね?」としか思えないんです。
 
 大事な部分が繋がっていないのを、強引に「これとこれは一緒! はい、できた!」ってくっつけて説得力のない関連性を作り出してるから、全体的にこっちから忖度して読み取ってあげないと成立してないし、それをしたいと思わせる魅力も特に無い作品に仕上がってましたね……なんだろうなぁ、自分勝手な妄想を延々ぶつけられてる感じ。うーん、普通にダメな作品でした。
 
 唯一良かったのは、久しぶりに帰ってきた幼馴染の女がいきなり主人公と懇ろになったり、ちょっとテレビに出ただけの主人公が「村の案内役」としてその後すぐに他のテレビ番組にも呼ばれるようになる、みたいな感じで「とにかくこの主人公は、めちゃくちゃ顔が良い」ってことを出来事でもって語る手腕は、異様に上手かったですね。そのぐらい。
 
 ……あとさぁ、ラストでちょっと境界知能っぽいキャラクターが(いや、このキャラクターが事態をめちゃくちゃ動かすあたり、むかーしの「白痴が物語を展開をさせる」系っぽくてそれも古臭いんだけどさ)、ひとり村から出て行くシーンで終わるんですけど。
 いやこれって完全に『CUBE』のラストじゃん! ははぁなるほど、人間関係でがんじがらめで出て行けない村落と『CUBE』の立方体を重ね……いやいやいや、別に即死トラップ村でもねぇし、「出て行こうと努力する」『CUBE』の主人公たちとは全然違うじゃん! ここも無理矢理な関連性なのかよ! バカなのか??? って感じでしたね。ちょっと笑っちゃったよ。

※※※※※※※※※※※※

 次回は『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?