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一週遅れの映画評:『ぼくらのよあけ』流れよ我が涙、と黎明は言った

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ぼくらのよあけ』です。

ぼくらのよあけ03

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 いや~、超良かったですね、『ぼくらのよあけ』。なんかまっとうに泣かされてしまいましたよ。
 
 お話としては今よりもすこし先の未来で、もうすぐ取り壊される予定の団地に住んでいる少年たちが、オートボットって呼ばれる人工知能搭載の家庭用のロボットを通じて26年前に地球へ墜落した宇宙船と、そこに搭載されている異星の人工知能を元の星へ送り返すためなんやかんやする。ってストーリーなんですけど。
 
 この『ぼくらのよあけ』は設定というか、物語の進めかたがめちゃくちゃ上手いんですよ。それぞれ別の出来事なんだけど、意味として重なり合う状況を並列に見せることで、共通するメッセージを提示している。それがね映画1本、原作だと単行本2巻っていう尺で語るのにすっごいマッチしていて、それがね素晴らしいんですよね。
 
 ただこういう多層的な構造の話を口頭でするのってウルトラ難しいのでw今回は後から文字起こしした映画評で補完するのを推奨します! なのでいまの時間はなんとなくエッセンスとか雰囲気を感じていただければ、と思います。
 
 まずね、もうすぐ団地が解体されるという状況があります。つまり住民はそこから出て行くしかないわけですよね。小学4年生である主人公はもちろんそういった状況を理解はしているし、反対のしようすら無いことも知っている。
一方で、生まれてからずっとそこで暮らしてきて、当然同じ団地の友達もいる。だから彼にとってはまったく未知の世界に行けと言われてるようなものなのですよ。だって他の場所で生きていたことなんてないし、友達とはバラバラになってしまう。
友達はそんなに遠くに行くわけでもないし、恐らく転校とかも無いっぽいからバラバラになるって言ってもタカが知れてる。知れてるんだけど、それでも同じ空間を共有しなくなることでどうなってしまうんだろう? っていうのはやっぱりわからない。
 頭ではちょっと引っ越すだけだから大したことじゃないってわかっていて、心ではどうなるんだろうって不安がある。そうゆう状態なわけね。
 
 で、それはいったん置いといて。
 宇宙船の、というか宇宙船に搭載されてる人工知能、いやコイツの名前が「2月の黎明」とかいってめちゃくちゃクールでかっこよすぎなんだけど。まぁ人工知能って言っても、たぶん私たちの想定するような人工知能とは生まれ方が違うっぽくて……ていうか人間はセックスして子供を生むわけじゃない? つまり人の手によって作成された子供に搭載されてる脳も、めちゃくちゃ広義だけど人工知能ではあるわけですよ。この2月の黎明氏のことは、そういう意味での「人工知能」って思ったほうがいい気がするんだけど。
 この2月の黎明がなんで26年て時間を経て、ナナコっていう家庭用オートボットを介して目覚めたかって言うと、「このオートボットに搭載されてるAIが、事故で地球の近くに来たとき最初にあったAIと似てたから間違えっちった☆てへぺろ」っていう。いま私のなかで2月の黎明はドジっ娘ギャルになりつつありますが、その理由を聞いた主人公たちは、これが非常にマズイ事態だということに気が付くわけです。
 というのも2月の黎明が最初に出会った相手は、地球産の人工衛星とそれに搭載されてる人工知能なのですが、この人工衛星から「なんか謎の物体が地球に近づいてますよ」とか「なんかその物体と話したら、異星の人工知能みたいッス」みたいな報告が一切されてないと。
これは非常に大きな問題なんですよね、つまり超優秀な人工衛星から送られてるデータで生活している人にとって、人工衛星から送られてくるデータに改竄があった、平たく言うと「人工知能が嘘をついた」ってことになる。観測結果をそのまま伝えてくると信じていた相手が、実は「嘘がつける」というのはマジでヤバくて。これまでその人工衛星からのデータで問題が発生していなかったから、たぶん嘘をついてるのは異星人のこと一点だけだとは思うんですが、実際にやってるのかとは関係なく、そこに「嘘がつける可能性がある」ということだけで、私たちは人工知能を信じられなくなってしまう。

 さらに、2月の黎明が人工衛星とオートボットを間違えてしまったのにも理由があって。この人工衛星に搭載されてる人工知能がめちゃくちゃ優秀だったため、作中で使われてる人工知能はほとんどすべてがこの人工衛星のものと同一なんですわ。つまり世の中にある機械全部が「嘘をつくことができる」ことになってしまう。これはもう軽めの文明崩壊フラグですよ。
 それでね実際、2月の黎明と触れたオートボットのナナコも、作品の後半で「嘘をついている」ことが判明する。2月の黎明がナナコを介してコンタクトしてきたことで、ナナコの中には想定されていない変更が加えられてしまった。この状態でOSのアップデートを行うと、その変更部分はエラーとして修正されてしまう。
 だからナナコは”自分の判断で”そのOSアップデートをキャンセルしてるんですよ。だって修正されてしまうと2月の黎明とのことを忘れてしまうから、という理由で。いやもうここ人工知能における人格の目覚めが~、みたいな話を1時間くらいしたいんだけどwどう考えても無理なのでグッと我慢をします。
ただそのアップデートのキャンセルも規定の期間で強制アップデートが行われてしまう、それが宇宙船が地球から離れる日で残り数日ってところまで迫っている。

 そこでナナコは「宇宙船の保存領域に自分のデータを移行させる」ことを選ぶ、つまり「いまの自分」を消されないために宇宙へと(データだけ)旅立たつことを決意するんですよ。それはこの宇宙船に関する諸々を通して関係の深まった主人公とナナコとの別れを意味している。
 
 ここでね、団地解体の話を思い出して欲しいんですよ、さっきいったん置いといたのを戻してきますよ、よっこらしょ。
 どうしようもない理由で壊される”団地”と”いまのナナコ”があって、それはもう止められない。そして今まで生きていた場所から出て行かなければならない。その結果、一緒にいた相手とはバラバラになってしまう……この構造が重なり合って描かれているから、主人公の行動であったりナナコの決定に対して、私たちは強く理解ができる。
 
 それでね、この2月の黎明の星は水、ウォーターねウォーター。水を扱う技術がめちゃくちゃ発展していて、水自体が燃料であり、身体であり、CPUでありという感じで、とくに私たちの知ってる物理法則を明らかに突破した技術で水を好きな形にコントロールできるんですよね。
 それには有効範囲はあるのだけど、そこから離れてもごく僅かな水があれば範囲を延長して繋がることができる、それでそのコントロール能力を発揮できるようになっている。
で、宇宙への旅立ちに向けて、まずは燃料として団地1棟を丸々埋め尽くすぐらいの水を用意する。いや、ここも「解体される団地」と「その団地1棟分の失われるもの」が重なっていて良いんですが、それとは別に燃料へ点火するための信管が必要になる。まぁその信管も水なんですが、燃料と信管を同じ場所に保管してたら超危ないので、それは別々の場所に用意してある。
だけど、最後の出発の瞬間にトラブルが起きて燃料と信管を繋いでいる水のラインが寸断されてしまうんです。そこで主人公たちがペットボトルロケットを使ってギリギリでその接続を復活させるのです(あぁ、もうここでもペットボトルロケットの燃料としての水と空気が~みたな話を割愛しなくちゃなんない!)。

 それでいよいよ宇宙船が飛び立つ瞬間、主人公は団地の屋上に昇ってそれを見送るわけですよ、それは当然”いまのナナコ”とのお別れでもある。
屋上はまだ水が湛えられていて、その中で主人公は宇宙船が飛び立つ瞬間に一筋の涙を流す

 さっき話したように「ごく僅かな水が間にあれば繋がる」ことができるのですよ、宇宙船は。つまりここで主人公の流した涙によって、ナナコとの繋がりがあることを示している。
ここで宇宙へ行ってしまうナナコと、そうやって離れ離れになってしまっても、そのか細い数滴の水で繋がっていられることをあらわす。これがひいては団地という場所から離れても、友達との間がバラバラになるわけじゃない、って答えに回帰してくるわけですよ。だから主人公はこの宇宙船を見送った後でようやく引っ越しの準備を始めることができる。バラバラになってしまうことが、もう不安ではないから。

 ホントは大人周りの話とか、姉と弟の話、女子周りの話とかもこの図式で語れるんだけど、それをするにはちょっとこの映画評ではタイムオーバーになりそうなので、そこらへんは各自で自由に当てはめていただければ、と思います。
 
 最後にね。
 最初に私は言ったわけですよ「まっとうに泣かされた」って。泣くことによって主人公とナナコが繋がれたように。これはね、見ている私たちも思わず泣いてしまうことで、スクリーンのあっちとこっちの境界を越えて繋がることができる、ってことなんですよ。だから「まっとうに」って言葉を付けたんです。
 
 ナナコの言った「人間は嘘をつけるのに、つかないから偉いんです」というセリフ。これは物語上で嘘をついていたことが、正直に話すことで事態が好転していくことを示していて、それだけでかなり感動的な言葉なんですが、これをね、私は「スクリーンのあっちとこっちの境界を越えて繋がることができる」ってことに関連させたいのですよ。
 アニメっていうのはフィクションで、すごく雑に言ってしまえば「嘘」じゃないですか。だけどそれを見て感じたことや考えたことは「本当」で。だからフィクション/嘘を作ることができるのに、本当の気持ちをそこから生み出せる。嘘をついているのに、嘘じゃないものがあるということを、スクリーンのあっちとこっちの関係を祝福するような、そんな意図がある言葉だったんじゃないかな。と思ってます。

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 次回は『貞子DX』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの10分ぐらいからです。


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