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端午の節句と生命の力


<季節行事の農的暮らしと文化 5月 端午の節句と生命の力>

端午の節句といえば、全国で見られる鯉のぼりだろう。
それも地域の河川にロープを張り、何十匹ものカラフルな鯉が青空のもとはためく姿が力強い。
鯉のぼりを掲げる歴史は意外と浅く、はじまりは江戸時代の武士の間で立身出世を願ったものだった。河川に掲げるようになったのは1979年の熊本県杖立温泉がはじめだったようだ。青空だけではなく湯けむりつきでる。
もともと、鯉が黄河にある急流を登ると龍になるという「登竜門」伝説にちなんだもの。そう、ポケモンのコイギングが進化して龍の姿をしたギャラドスになるのもこれが元だろう。
本来、池など比較的平安な環境で生きる鯉のような身近で平凡な生き物が、急流の河川という過酷な環境を進んでいく。そうすれば神様である龍となる。
これは誰でも努力をすれば成功するという思想であり、大いに農民たちを励ますとともに龍神様を身近な存在として捉える意味があったように思える。そしてその思想はもちろん、すぐに怠ける農民を諌める意味合いもあった。ずっと昔から努力と競争は施政者が植え付けてきた価値観なのかもしれない。

話を戻して、江戸時代の端午の節句の風習を見てみるともともとは男子が独占する行事ではなかったようだ。
東日本周辺では菖蒲を組んで棒状にして、土を打ち、女の尻を打つという魔除けの風習もあったようだ。
折口博士の調査では「村の男はこの日に田の神となり、女は田の神の巫女となる。その際に禊が厳重に行われた。この禊が端午の日に水を浴びて汚れを流す方式と結びついた」という。
現代でも銭湯や温泉などで菖蒲湯に入るのはこの名残である。こうして老若男女すべての人の穢れを祓う。
五日にはどの地域でも鯉のぼりを立て人形を飾るが、この人形は形代の名残である。形代に汚れをうつしたのち、燃やしたり流したりして追い払ったのだ。

もともと中国の伝統的な季節の行事で奈良時代ごろから日本でも始まった。「菖蒲」は武道や武勇を重んじる意味の「尚武」と掛け合わせただけではなく、
菖蒲の葉の形が剣(中国では刀よりも剣の方が一般的)に似ていることから、鎌倉時代に武家の男児の健やかな成長と立身出世を祝う行事に定着したものだ。こうして貴族から武士、百姓へと行事は伝播していく中で形を変えていくとことろ独自のものが発生するのも日本の歴史の流れである。
ちなみにこの菖蒲はショウブ科のショウブで、アヤメ科のハナショウブとは別種。
菖蒲は水を浄化する能力に長けている。水中に溶け出しているリンや窒素を積極的に吸収し、大きな茎葉に転換する。その茎葉で吸った酸素を土水中内に送り込み腐敗を防ぐ。
そしてその茎葉からはアロマオイルに使われるほどの強い香り出し、殺虫・害虫忌避効果が確認されている。
これから雨が多くなり虫が多くなる季節に菖蒲は大活躍するのだ。
京都府の貴船神社の端午の節句の神事・菖蒲神事では巫女さんが菖蒲の葉とヨモギの葉を持って舞を奉納する。
ヨモギもまた虫除け効果の高い植物だ。

この時期に穢れを祓うのは五月は大切な農作業が多いためだ。そのため農に関する行事が多い。
田植え始めをサオリ、サビラキというのは神様が山から降りてくる事で、田植え終わりをサノボリといったことからその間ずっとは祭事を意味していたのだった。そのため五月四日などは物忌みに入るべき日だったのかもしれない。江戸時代の風習には4日に人々は仕事を休み、集まっては断食をしたり、してはいけないことがあったり、話してはいけない言葉があった。積極的に「しない」ということは身を清める意味がある。

端午の節句に西日本ではチマキを食べる。これは本来旧暦5月つまり新暦6月に虫送りのときに食べるものだったようだ。悪霊退散と神送りの混同がよくあった。田の神が登ってゆくときに虫を託すこともあった。
神を送る際に食物を持たせる風習は多い。稲虫を送るときに実盛様の腰に稲虫の包みをつけるばかりでなく、小さい袋を下げて、家々からこれにお米を少しずつ入れる風習があった。
チマキもまた神送りの苞であった。チマキに使われるクマザサはビタミンCに富むとともに抗菌作用があり、その香りが餅米にうつって香ばしさが増す。香りは食欲増進の役目も果たすが、香り自身にも薬効効果があるとともに、呪術には欠かせない呪力を持ち人間の能力を引き出すものでもある。
現在でも東南アジアではササや竹の葉で蒸したもち米が屋台などで売られている。これはもっぱら容器としても役目はもちろん抗菌作用を生かした保存効果を利用している。
日本では味噌づくりのときに、仕込んだ上にササの葉を敷いていたようだ。一部の地域では和紙なども利用していたようだが、ササの葉が一番身近であったことと購入する必要がなかった。近年、笹の葉では抗菌作用があるものの、一部の乳酸菌が住み着いていることがわかっており、先人たちはこのことにも気がついていたのかもしれない。

東日本では柏餅が食べられる。
柏餅もまた武士の間で始まった風習で、柏の木が秋に枯れた後、新芽が出るまで葉が落ちないことから、家系が絶えないと喜ばれた縁起物だった。武士にとって一番大事な子孫繁栄が、江戸時代の百姓にとっても同じ重要事項だった。農作業に関する祭り事は子孫繁栄の祭り事と共通点が多い。昔から植物が持つ力を呪力によって能力を増して、子孫繁栄に生かそうとしてきたのだろう。本来、食べると言うことも同じようなことだ。「いただきます」というのは祈りでもある。
また柏の木が手に入らない木曽地方ではホオノキの新葉で餅を包んだ朴葉巻が郷土菓子として有名である。
さらに柏の木が自生していない西日本では柏餅が登場する前からサルトリイバラの葉で包んだ餅が主流だったが、柏餅の文化が江戸時代の参勤交代とともに東から西へ伝わったと言われている。韓国ではこの餅をマンゲトクと呼び、旧正月などさまざまな行事で食される。これもまた朝鮮半島から伝わってきた食文化なのかもしれない。

中国思想が色濃い貴族文化ではチマキのように主に「常緑の草木」を用いる。これは一年中緑色を保つ草木の生命力に「永遠性」を感じる感性から来ている。それに対して武士文化では主に「広葉落葉樹」や「冬には枯れる草」を用いる。これは「潔く散る」ことに美徳を感じる感性から来ている。平清盛が残した「栄枯盛衰」と歴史がそれを物語っているだろう。

ほとんどの広葉樹が秋に色づき、冬に枯れて葉を落とす。紅葉落葉樹と言われる所以である。しかし、柏の木は簡単には落ちない。木枯らしが何度吹いても、だ。春になって次の新芽が出るまでじっと堪えている。そして新緑がしっかりと太陽を受け止めるとき、人知れずに落ちていくのだ。
ここから分かるように武家にとって子孫繁栄はもちろん喜ばしいことだ。しかし子孫が繁栄するためには先人が邪魔してはならないと同時に早く散りすぎてもいけないのだ。子孫が一人前に立ち上がるまで先人は見守り続ける。そして、その日その時に人知れず散っていくのだ。その潔さを武士たちは理想として体現するために、それを毎年体現している柏の木の呪力をいただくために、毎年柏餅を作り食べてきた。

そんなことに気がついた武士たちも観察の天才だったのだろう。もちろんそれを生かすセンスも兼ね備えていた。江戸時代の中期になると幕府や藩の財政事情の苦しさから中級以下の武士たちも農業や工業に従事したというが、それは間違いなく江戸時代の文化の多様性と隆盛に貢献している。

1733年、将軍・徳川吉宗は飢饉や疫病による死者を慰めるため、隅田川の川開きに合わせて水神祭を開催。このときに打ち上げられた献上花火は日本初の花火大会と言われている。その開催日の旧暦5月28日にちなんで新暦5月28日は花火の日となっている。
旧暦5月28日~8月28日までの間に隅田川は夏の涼を求める人々に開かれて、遊びやパーティーで賑やかだった。その初日は川開きの日だった。
江戸の町で盛んだった花火こそ、夜空に鮮やかな花を咲かせ一瞬で消えていく武士の「粋」であった。


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