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三つの断捨離 引き算の思想


<畑の哲学>三つの断捨離 引き算の思想

自然農を実現するためには捨てなくてはいけないことが三つある。それを三つの断捨離という。

ひとつ目は土の断捨離。過去に肥料や堆肥が施肥されていれば栄養過多となっているから徹底的に抜き取る必要がある。栄養過多は必ず虫と病気を呼ぶ。

特に動物性堆肥の影響は大きい。十年経っても影響が残り続けて、ヨトウムシなどの害虫が居続ける。
養分を吸い上げる力が強い緑肥やシソ科、ソバなどを栽培して畑の外に持ち出すか、焼いてしまうなどする必要がある。
それでも害虫の被害がほとんどなくなるまではイメージ以上に長い時間がかかる。
そのため過去に動物性堆肥を使用していた畑では自然農への切り替えが難しい。
もちろん不可能ではないから、長い目で見てあげたい。

この点、化成肥料は水溶性のため、雨水で地下水へと流れていってしまうので排水性が良ければすぐ抜けてしまう。
ただし、大型機械を使っていた畑では地下に硬盤層ができてしまっていて、排水性が悪くなっているばかりか
この層に肥料分が留まってしまい、腐敗臭が漂う。
この層を肥毒層と呼ぶ。
しかし、これもまた人力もしくは植物の力で破壊することができれば、すぐに肥料分は流れていく。

私たちのイメージとは裏腹に過去に有機栽培をしていた畑の方が自然農への切り替えが難しく、化成肥料をしていた畑の方がすぐに切り替えができる。その理由は使っていた肥料や堆肥の性質の違いである。

また過去に農薬を使用していた場合も同様にその成分を抜き取る必要がある。
しかし、これもイメージとは違って慣行栽培で使用される農薬は簡単に抜き取ることができる。
というよりも、日本で使用できる農薬は自然状態で数日から数ヶ月内である程度分解されることが条件となっているので、数年もすれば綺麗に分解されてしまう。

二つ目は思い込みの断捨離。私たちは現代教育やマスメディア(テレビやSNSなど)の影響を強く受けてしまっているがために、自然界の常識を全然知らない。

「農業界の常識は自然界の非常識」という言葉があるように、農学で学ぶことは自然農ではあまり役に立たない。
農家は肥料や農薬については誰よりも詳しいが、どうして雑草が肥料も農薬も要らずに育つのかを全く知らない
むしろ、自然農で学ぶ原理原則は生物学や森林生態学の教科書に出てくるようなことばかりだ。
これは農業の現場では人間の都合が最優先され、野生生物や森林では人間の都合がほとんど影響を与えないからだろう。

農家たち同様都会に住む人々もまた自然界のことを何も知らない。たとえば「農薬を使えば生態系が壊れる」とか「耕せば生態系が台無しになる」と声を荒げるが、田畑に行けばそれがどれだけウソなのかがよく分かる。
もし、それが本当なら人類はとっくに絶滅しているはずなのだが。毎年毎年雑草が生えてこなくなるはずなのだが。

自然農をしていると、地球の仕組みは本当に面白いと思う。現代教育やマスメディアによって頭に埋め込まれてしまった思い込みやレッテル、勘違いをことごとく崩していく。
私は何度も何度も、彼らに常識の厚い皮を破られ、捨てられてきた。
むしろ、そういったものを捨て去ることができない人はあれやこれやと手出しをたくさんして苦しみながら畑をすることになる。

自然農で一番面白いところはヒトがほんの少し手を入れるだけで、勝手に彼らが育ってしまうところだ。
福岡正信さんが「タネを蒔いたら、あとは寝て待て」という言葉を残しているが、
それはヒトが知恵や欲を出して頑張らなくても、彼らが勝手に育つ風土・環境にしてしまうことで
ヒトはそこから恵みを頂くだけで生きていけるということだ。
そのためにはまず「頑張らないと生きていけない」という思い込みを捨てる必要がある。
だから自然農の職人たちは社会から遠く離れたところで、まるですべてを悟ったかのような立ち振る舞いで、のうのうと暮らしている。

そして三つ目は習慣の断捨離。自然農を始める人たちが一番最初につまづき、そして最後までつまづくのがこの習慣の断捨離である。逆に最初にできてしまえば、あっという間に自然農が身につく。

ほとんどの人が今までの暮らしにプラスアルファで自然農を取り入れようとするが、たいてい時間のなさにくじけてしまう。

「時間がない」というのは自然界で一番通用しない「人間の都合」である。そして、時間がないのはこの地球上で人間だけである。しかも先進国の裕福だという現代人だけである。便利なものにあふれた生活をする人に限って「時短」や「効率」を追い求めている。

忙しいイメージが強い農家だが、江戸時代の農家たちの記録を調べてみるとそうでもないことが分かる。これもまたメディアによって植え付けられた思い込みだ。

江戸時代の農家は「百姓」と呼ばれていたように、多くの仕事や活動をこなしていた。しかし彼らは決して忙しいわけではなく、野遊びや芸能、和歌や盆栽などの文化を楽しみ、江戸文化の主役でもあった。

彼らは毎日暮らしを楽しんでいたが、彼らにはカレンダーも手帳もなかった。だからスケジュール管理という考えもなかった。

そんな彼らに唯一あったのは「余白」である。多くの時間が彼らにとって余白の時間だった。だから、その時間を農に当てることも、他の仕事に当てることも、遊びに当てることもできたのだ。そのときに必要なことを見極めて、選択して暮らしていた。

しかし、現代人には選択できる余白の時間がほとんどない。仕事中には仕事以外のことはできないから、畑仕事に最適なタイミングでも畑にはいけない。

仕事に時間を奪われるために、空いた時間は家事や用事などに当たられて、プラスアルファの畑はどんどん後回しになる。自然は待ってくれないというのに。

仕事に時間ばかりかエネルギーも奪われてしまうために、準備がテキトーになり、畑仕事はどんどん散漫にテキトーになる。そういった人の畑を見ると、その人の暮らしぶりがよく分かる。細かいケアができない人の畑は人のケアがどんどん必要になる。

現代人は仕事はもちろんのこと、本当に生きるために必要なこと以外に時間とエネルギーを使いすぎている。その取捨選択をしない限り、自然農が中心の暮らしはできない。

新しいことを身につけるためには、まずは辞めなくてはいけない。両手にリンゴをもっていては、新しいリンゴは手に取れない。タンスが満杯なら新しい服は買ってもしまえない。まずは手放してこそ、捨ててこそ、新しいものは手に入る。

そのためにまずはテレビとスマホの電源を切ってしまおう。そして生きるために必要のない習慣はどんどん辞めてしまうことだ。

今の自分にとって「本当に必要なことを、必要な時に、選択できる」ということが「ほんとうの自由」である。畑が後回しになっているということは、余計な習慣が多いか、畑そのものが本当は必要ないということだ。

「今日はこれから畑仕事があるから、仕事を休みます」という言葉を言えるようにならない限りは自然農の実践は難しいし、自然と調和した暮らしは実践できないだろう。現代社会とは人間の都合だけしかない社会だから、すぐに災害を引き起こす。

やめることができれば、人生は楽になる。これこそが「引き算の思想」の醍醐味である。足りない足りないと思っているうちは生きづらいままだ。「足るを知る」という教えは決して物質だけの話ではない。現代人は余計な習慣もまた多すぎる。余計なことをやめてしまえば、余白が増えて、自然と調和した暮らしに近づくだろう。

自然と調和した暮らしは現代人からすればなんとも暇そうに見える。しかし、本人からすれば充実した豊かな暮らしである。立ち止まることも、ゆっくり丁寧に動くことも余白があるからこそできる。


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