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なぜ立春に豆をまいて捨てるのか


<季節行事の農的暮らしと文化 2月 なぜ立春に豆をまいて捨てるのか>

「鬼は外!福は内!」

という掛け声のもと、家の中でも外でも豆すなわち炒った大豆を撒くのは
日本人なら誰もが体験したことがあるに違いない。
私も小さいころから兄や親に鬼の面を半ば強制的につけさせて、取り組んでいた。
もちろん突如と現れる鬼の姿にぎゃんぎゃんと泣き叫んだ、幼き頃の記憶もまだ残っている。

家庭菜園を始めるとこの大豆が、枝豆がさらに熟してタネになったものだということが
雑学としてではなく実体験として学ぶことになるのだが、
それにしても、初めて自分で育てた大豆で豆まきをするとき、躊躇したものだ。
なぜなら、どうして豆を捨てなくてはいけないのか、と。
自分で育てた愛すべき豆で鬼を退治するとしても、その豆を拾って食べる気はしない。
昔なら箒で集めてゴミ箱行きだが、現代の家庭では箒もなくルンバや掃除機が誤飲するために豆まきをしない家庭もあるという。
私は箒しか持っていないので、よくてもコンポストに回して堆肥化するくらいだ。

やはり豆をまくのは日本人らしくないと思う。
お米一粒すら残さずに食べることを良しとして、魚を綺麗に食べる人を育ちの良い人と見る日本人が
その逆とも言えるくらい盛大に食物である豆をまくのだから。
しかも大豆は日本食には欠かせないものであり、昔から貯蔵食でもある。飢饉に備えて取っておくべきではないのだろうか?

さて、この大豆が実はいま縄文時代の、いや東アジアの農耕の歴史を変えようとしているのを知っているだろうか?
実は日本の縄文遺跡から大豆が栽培化された形跡が次々と見つかっているのである。

大豆の原種となる野生種はツルマメと呼ばれるマメ科の植物。
野生種から栽培種に変わる証拠のひとつである種子の肥大化が新しい調査方法によって確かめられているのだ。
このツルマメが縄文時代の頃から栽培化されていたことが今、明らかとなりつつあり
近い将来、学校の歴史の教科書が変わることはほぼ間違いないという。

しかも面白いことにこの大豆の栽培化は、日本だけではなく中国、朝鮮と東アジア各地で約5千年前に同時多発的に起きたと考えられている。
これが伝播ではない理由は各地域で発見されている栽培化された大豆の形が違うからだ。
まだ日本のどこで栽培化が始まったのかはわかっていないが、縄文時代の遺跡から発掘される年代を見てみると
東北地方から西日本へ伝播していっているようなのだ。つまり弥生時代の稲とは真逆。

縄文土器はまさにこの豆を煮るために開発され、発展していった可能性も指摘されている。日本の土器文化の発展は東アジアでも進んでおり、豆のほか木の実、魚貝類、植物の根などを煮ることで毒を消し食べやすくなり、旨味を引きたたせる食材の豊富さが関係している。
縄文時代からクリや里芋や山芋、ゴボウなどを中心として栽培化が起きていたとしても
現代につながる日本の農文化、食文化の起源が米と大豆であることは間違いないだろう。
なぜなら、多くの季節の行事に米と大豆が登場するからであり、日本食の中心を担うからだ。
それに対して否定的な意見は全くないのではないだろうか。

実はこれが東アジアを含む正月のタイミングと関係があるのだ。

新年の始まりをどのタイミングとするのか。
それは暦を作りだしてきた歴史の偉人たちは相当悩んだに違いない。

諸説あるのだが、新暦が日本にとって寒くてたまらない1月1日であるのは
その起源に当たるエジプトではちょうどその頃から気温が上がり始めるタイミングでもある。
誰もが知っているように12月後半にある冬至が一年の中で一番暗い。
そこから少しずつ日照時間が増えてきて気温の変化が現れてくるころを正月としている。
実際にエジプト周辺の国では冬至の頃には収穫祭が行われて、新年まで休みの国がほとんどなのだ。
欧米文化のクリスマスから新年までのクリスマス休暇もこの流れを汲んでいる。

2月頭は私たちが住む高緯度地域でもやっと春の兆しが見え始める。
足元にフキノトウが見られ、梅の蕾が膨らむ。
まさに春の節を感じることができる。だからこそ、この時期を正月としたのだろう。
その証拠に春節の直前には二十四節気では、一年で一番寒い大寒である。

日本にもたらされた稲の伝播ルートの説に東南アジアから中国南部、そして台湾、沖縄のルートがある。
実はこの亜熱帯地域の稲の種まきはなんとちょうどこの2月の頭なのだ。
だからこそ、これらの地域では稲を一年に3回作ることができる。
もしかしたら、米が伝わってきたときに2月に祝う慣習も伝わってきていた可能性がある。
それが現代の新年を祝う源流かもしれない。

年始の「年」という字は稲魂を頭にかぶって踊る男の姿を現している。
「季節」の「季」は上の字が稲魂を頭にかぶって踊る女を意味し、子供と一緒に踊っている。ともに豊かな実りを願って田舞を行う様子。
こうして作物が育つ期間を「季節」「年」と表現している。

また現代では廃れてしまった正月の行事の多くが神様を迎え、神様を送る儀式でもある。
今年一年の天気や豊作を占う行事も正月に行われることも神様を迎えるからこそできるわけだ。
新年の天候と豊作を占う方法の一つに節分の夜、囲炉裏の灰に大豆をうずめて表面の割れ方を見る方法が日本各地にあったのも興味深い。もしかしたら、その後に豆をまいたのかもしれない。
東アジアの人々は春こそ、一年の始まりである。だからこそ、立春が新年に切り替わるタイミングとして重要視されるのだ。

さて、そこでするのが豆まきである。
これはもともと中国の追儺(ついな)という慣習が元となっている。
追儺は桃の木で鬼や邪気を払う儀式で奈良時代に日本に伝わったと言われている。

日本ではこの慣習が霊力を持つとされる五穀のひとつ大豆が採用された。
これは「魔を滅する」「摩滅する」の語呂合わせとかけていると考えられている。
生の豆をまいてしまうと残った豆が発芽して邪気が入り込むのを防ぐために炒ったとも、
また豆を炒ることでに火という邪気を払う性質を蓄えさせていることも考えられる。

奈良時代といえば味噌造りが日本に伝わってきたタイミングでもある。
味噌といえばそう、一年で一番寒い大寒に作るのだ。
つまり、最強の保存食を作り終えたあとに残った大豆を炒って、まくのである。

だがしかし、ここまで考えてみてもやはり、なぜ捨ててしまうのかが分からない。
この不思議な慣習について民俗学者の宮本常一さんはこう答えている。

「豆まきはもともと供物の形だったのではないだろうか」

これは鬼という存在に二面性があることに起因している。
宮本常一さんによると西日本の鬼は神様として扱われている節があるという。
おそらくもともと鬼は神様だったのではないだろうかと。

鬼といえば青森など東北地方に存在するナマハゲを思い出す人もいるのではないだろうか。
実は東北を中心として東日本の鬼は子供をしつける役割がある。
つまり、「悪い子はいねえか?」である。

ナマハゲは角があるが鬼ではなく神様の使いという来訪神であると言われている。
それが近代化の流れで鬼と同一化されたのではないかというわけだ。
このナマハゲが民家にやってくるのはもともとは旧正月の大晦日だった。
そして、面白いことになんと九州南部の屋久島にも同じようなナマハゲの文化が残っているのである。
ここに日本人の源流や文化の伝播の面白さが隠れている。
この話はまた別の機会に。

兵庫県神戸市の長田神社では現在でも立春の前日に追儺式が行われている。
この神社では鬼は神様の化身として伝えられており、7人の鬼たちが松明を持ち舞い踊る。
そして、私たちの厄を払い、災いを祓い清めてくれるのだ。
この長田神社の主祭神は事代主神であり、父は大国主神で出雲大社で有名な縁結びの神様である。
この事代主神の別名は「えびす様」である。

「えびす」の漢字には恵比寿のほかに「蝦夷」があり「毛人」がある。
その両方の名を名乗った歴史上の有名人が蘇我蝦夷である。
そしてこの名は縄文時代に日本列島に住んでいた土着民(先住民、原住民)の総称だったと考えられているのだ。つまり蘇我氏は大陸からやってきた人々とは違う土着民の代表だった。
蝦夷も毛人ももともとは卑しい名詞ではなかった。
蝦夷の子である蘇我入鹿の暗殺とそのあとの蘇我蝦夷の自害は大化の改新につながるわけだが、
それは日本の歴史史上初のクーデターであり、政治から土着民が排除された大事件でもある。

蘇我氏が失脚した以降、朝廷に与しなかった人々を蝦夷と呼び、気がつけば鬼と呼び退治するようになった。
ここに縄文文化(土着民文化)と大豆が、鬼と豆まきにつながるである。

さて、日本の神様には2面性がある。
それは我々に恵みをもたらす側面と、災いをもたらす側面だ。
日本の神様は昔から良いことしか言わないわけではない。いつも良き振る舞いをするように求める。
恵みは良き振る舞いをしたもののみに与えられる。災いは日頃の行いの悪さがバチとしてやってくるのである。
その証拠に誰もが正月にひくお神籤にも大吉とはいえ戒める言葉が並ぶのである。
だからこそ、因果応報を教える仏教が日本でも受け入れられたのだろう。

おそらく鬼もまた恵みをもたらす神様として、災いをもたらす神様としての2面性があるに違いない。
だからこそ、大晦日に鬼を迎え、ありがたいお言葉(祝言)と新年の流れ(予見)をいただき、戒めてもらい、
そして霊力高き大豆を供え物として捧げながら、神に帰ってもらうのである。
神送りは神迎えと同様に重要な神事だ。節分は神送りの神事でもある。
節分の行事はもともと七日の節日に行われていたようだ。そんな大切な行事を立春の堺に行うようになったのだろう。

私たちは「鬼は外!」と叫ぶときだけではなく「福は内!」と叫ぶときも同時に豆をまく。
これは家の内も、外も豆の霊力で厄を払っている証拠である。
そして、鬼という神様に供物をしつつ、鬼と一緒に災いを外に送る行為でもあるのだ。
日本の文化では神様は迎えることと送ることはセットである。
この行事には餅まきと通ずる箇所が多いことも面白い。

ここに日本人が一つの行為にさまざまな意味や想いを込める文化が見て取れる。
日本の農文化や食文化が世界中の文化を取り入れ、独自に発展させた複層・多層・多重文化であることも納得する。

さぁ、今年も鬼と豆に感謝して、鬼と豆の霊力を存分に活かそうじゃないか。
豆をまくときは神を送る心を備えてもらいたい。

~今後のスケジュール~

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・沖縄県本部町 2月11日~12月1日
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・沖縄県豊見城市 2月10日~11月30日
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・岐阜県岐阜市 4月21日

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