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西洋と東洋の自然観の違い


<畑の哲学>西洋と東洋の自然観の違い
自然は常に正しい、誤りはもっぱらわれわれ(人間)にある

というのはドイツの詩人ゲーテが残した言葉。
ゲーテは大学時代に自然科学全般を研究したのち、劇作家や小説家、政治家・法律家としても活躍した人だ。

さて、この言葉には西洋の世界観が見える。
俗に言う二元論だ。

西洋科学は自然と人間を分離して考える。
わかりやすいのが植物の分類法である「~~科」だ。
植物の分類はリンネによってなされた一大事業だ。

植物をアブラナ科、セリ科、ナス科などと分類する基準は
花の構造である。

一見、茎葉や実の形が全然違うナス、トマト、ジャガイモも花を咲かせば
色は違えど同じような花をさせていることがわかる。

これはリンネが植物には生殖こそが最も重要であると考えたからだと言う。

花の構造によって分類することはその植物と人間の関係性を分離する。
人間が分類しようが、クマが分類しようが、魚が分類しようがすべて同じように分類されるわけだ。
(彼らが分類できるかどうかは別として)

こういうのを西洋科学が最も大事にしている「客観性」と呼ぶ。

その後の遺伝子の研究によって
この分類は間違っていなかったことが証明される。
そして、面白いことにだいたいこの分類によって植物の性質は似ており、益虫や害虫との関係も似ているのだ。

しかし、実はゲーテはこのリンネの分類学に対して否定的なのだ。
ゲーテは彼の著書を手に研究をして「リンネから多くのことを学んだが植物学は学ばなかった」と話した、という。

ゲーテはのちに「形態学」と呼ばれる分野を開拓する。
これは「花はもともと葉であった部分が変形したものでる」といった構造や形態に関する学問である。
この形態学は近年注目を浴びている。

さて、ゲーテの作品を読んだことがある人なら
ゲーテが東洋的な世界観を持っていたことが分かるだろう。

東洋の世界観は二元論とは真逆である。
西洋の科学が自然と人間を分離したのに比べて、東洋では分離しなかった。

東洋の「自然(じねん)」のなかには人間が含まれている。

中国を含む東アジアの植物学は本草学と呼ばれている。
歴史は古く中国では500年ごろから研究が始まっていた。
日本では江戸時代に入ってから本格的に研究が始まり、貝原梅軒の「大和本草」や寺島良安の「和漢三才図会」、そして岩崎灌園「本草図譜」が有名である。

この東洋における植物の研究には必ず「効能」が載っている。
つまり、この本草学とは薬草の研究なのである。

言い方を変えるならば「人間との関係」を研究しているのだ。

それならば、西洋の医学におけるハーブ研究と同じではないだろうか
と思うかもしれないが、やはり違う。
西洋科学ではその効果に客観的事実が必要だ。
つまり効能の元となる化学物質を見つけ、すべての人間に作用することを立証しなければならない。
つまり先ほど話した「客観性」だ。

しかし、東洋の本草学は違う。
本草学の効能は研究者自身が自分に処方したり、患者に処方することで
実際にどんな効果があったかどうかでその植物の効能を判断する。

つまり、徹底的に「主観性」を大事にしているのだ。
西洋の科学は研究すればするほど、分離していってしまう。
しかし、東洋の科学は研究すればするほど、関係を強く意識していくことになる。
そう、つながりが深くなるのだ。

ここに西洋と東洋の世界観が生み出す社会の行く末が見えてくる。

さて、最初のゲーテの言葉に戻ろう。
ゲーテのあの言葉は確かに二元論で、人間社会への批判のようにも受け取ることができる。
しかし、先ほども言ったようにゲーテが持っていた世界観は東洋の世界観に近い。

ならば、どういうことだろう?
ここからは俺の勝手な推測。

東洋の世界観では自然の中に人間が含まれる。つまり「じねん」だ。
そして、自然は常に正しく、人間は間違いを起こしてばかり。
西洋の二元論で考えてしまうと、これは矛盾だ。
自然の中に人間がいるなら、人間も常に正しいはずだ。

こう考えられないだろうか?
「人間は間違いを起こすようにデザインされている」と。

みんなも思い当たるに違いない。
今までの人生で積み重ねてきた間違いや失敗の数々を。

野生動物の世界では間違いを起こせば、命の危険に犯されるだろう。
しかし、人間は間違いを起こしてきても、繁栄してきた生き物だ。
それは強いからではない。他の野生動物よりも高い学習の能力を持っているからだ。
つまり、この学習能力も自然界のデザインのひとつなのだ。

過去を思い出すとき、そこには数々の間違いや失敗がある。
しかし、それでも私たちが生き残っているのは学習能力によって、それ以上の正解と成功を納めてきたからだ。
これは誰もが誇っていいことだろう。

近年、欧米を中心に教育の中で「間違える権利」を掲げることが増えてきた。
私たちには本来「間違える権利」と「学ぶ権利」があるのだ。
いや権利ではなく自由であり、才能である。

ゲーテがシュタイナー教育に与えた影響を考えると、
人間が間違える権利を持っているのは自然権の一つとも考えることができないだろうか?

人間は間違えることが自然界の正しさなのだ。

では、なぜ自然界は人間に間違えることをデザインしたのだろうか?
それはまだ西洋科学も東洋科学もたどり着いていないのかもしれない。

しかし、ひとつ持論がある。それはまた今度の機会に。

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