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無神論を乗り越えるメタ物理学

実証の徒にありたければ、観測可能な現象の他一切について物理学は口を噤むべきである。そうして代わりにメタ物理学が口を開くことになる。


壱.メタ物理学の発足(多元宇宙論を迎えて)

科学と非科学を別ける境界は反証可能性にある。

経験的に観測される何らかの現象について、科学はそれが生起する条件と法則の仮説=理論=theoryを立てる。この仮説=理論が科学的であるのは、それが何らかの経験・観測的証拠によって反証される可能性があるときに限られる。反証とは、その仮説=理論が謬っていることについての実証である。実証主義とは、経験的事実に基づく仮説=理論のみを検証し、そうでないものを検証の対象にしない立場のことである。科学は基本的にその大系を実験ベースで発展させる。理論科学は数学的な議論により発展するが、必ず経験的・実験的事実が先立ち、それを説明する仮説=理論を数学的に立てる、というスキームをとる。

仮説と理論を厳密に区別することはできない。一般的な語用においては、まず初めに『仮説』が立てられ、検証にかけられた結果それが妥当であると承認されたときに初めて『理論』と呼ばれるようになる。とはいえ、一度理論として確立したとしても、反証を受ければそれは容易に撤廃される。したがってあらゆる反証の可能性を潰す完全な検証なるものをおこなうことができない限り、すべての理論は仮説として、不断かつ永続なる検証に晒されているものと言える。そのため仮説と理論は本質的に一体である。

科学とは仮説=理論の群のことであり、物理学はその一領野である。この論理系において真偽{ないし道具主義的に『有用』『無用』}を賦与できる最小の単位は、必ず仮説=理論である。科学者また物理学者は、仮説=理論の成否のみを扱うことができ、仮説=理論の枠内で仮定される諸対象のみを抽き出してそれらの存在ないし実在について議論することは[しない|できない]。仮説=理論の枠内で扱われる対象については、単にそれらの存在が仮定されたもとで仮説=理論が立てられるだけであり、対象単体を取り出して議論することは{それら抽き出した対象についての仮説=理論について議論するようなことがないかぎり}できないのである。暗黒物質=dark-matterや幽霊=Geistの存在について、それらが存在しないことを証明することは不可能である。これは『悪魔の証明』なる論理の問題ではない。

多元宇宙=multiverse論は宇宙が複数同時に存在することについての仮説である。Tegmarkの分類学を筆頭に、その類型は数多あるが、本論では次パラグラフに示すような、同一の物理法則に支配される時空間を一つの宇宙とし、それが複数存在することについての仮説を『多元宇宙論』として扱う。

膨張宇宙論=ビッグバン理論によれば、宇宙は非常に高温高密度の状態から始まり、それが大きく膨張することによって低温低密度になっていったものとされる。観測可能な宇宙とは、任意の観測者を中心として、ビッグバン以後に経過した歳月に光速度を掛けた光年を半径とする三次元球体のことを指す。ここで、宇宙マイクロ波背景放射の等方性などを根拠として、観測可能な宇宙の外側にも空間は広がっているものとする仮説が有力である。そしてこの観測不可能な領域についても、素朴には観測可能な領域と同一の物理法則に支配されていることが予想される。この単一の物理法則に支配されている領域に『宇宙』という単位を与えれば、ここに複数の宇宙の存在を想定することができる。各々の宇宙は異なる物理法則に支配されているか、あるいは完全に同一の物理法則に支配されているとしても互いに[因果的に独立している|互いの宇宙に存在する物質どうしに何ら物理的接触を起こさない]。

多元宇宙論の提唱は、異なる物理定数群をもつ宇宙の存在可能性、すなわち諸物理法則の諸定数が我々の存在する宇宙のそれとは異なる宇宙の存在可能性について言うものである。四つの力、宇宙定数、プランク定数等々の完全にアトランダムな値の組み合わせによれば、時空間が崩壊せずに維持されるのは僅かであるが、「我々の存在する宇宙は神のような設計者によってファインチューニングされている」というインテリジェント・デザイン説よりも、「多くの可能性と確率のなかで、人間のような知的観測者が生まれた宇宙のみが内部から観察されることができる」という人間原理の仮定のほうがずっと素朴である。一方で、多元宇宙論の否定的な見方は「宇宙はただ一つであり、時空間が維持され、知的観測者を生みだすような、物理定数の組み合わせで偶然に一つだけ生成された」ということになるが、こちらを素朴とする意見もあるかもしれない。これらのいずれの言説がもっともらしいかという議論の不毛さは、実証不可能性に由来するものである。

現状、[検証にかける方法を見つけられていない|実証することができていないし、今後もできそうもない]という実証不可能性によってこれまで多元宇宙論は反証を受けずに生き延びており、それはある種の神話として[支持|信奉]されていると言うことができるかもしれない。これはまぎれもなく[非経験的|非観測的]証拠による仮説の立論であり、反証可能性に欠いたこの仮説=理論は、[科学理論|物理学理論]として認められている一方で、明らかに非科学の性質を具えている。

多元宇宙論は、現存する他の物理学理論と矛盾しないことを根拠として、これを仮説としてもつことが許されている。このような、既知の一切の物理学理論と矛盾しないが、反証可能性に欠くような仮説=理論の群を『メタ物理学』と本論では呼ぶことにする。言うなればメタ物理学とは、[経験科学|物理学]の扱うことのできない領域について[科学的|物理学的]に扱うことを可能にする思考フレームである。これを既存の物理学体系の拡張と見做すことは当然できるだろうが、メタ物理学の本義は物理学的に整合する模型=modelを組み立てることにある。[我々に感覚されることがただ計算機によってシミュレートされているとする『シミュレーション仮説』を退ければ|我々に感覚されるものは{局所的な事実に過ぎないにしても}少なくとも世界についての事実であり、そこに見出される規則性が世界の構造についての知識として認められるとすれば]、それは世界がそのようにあるかもしれないという単なる可能性の呈示のみならず、世界をそのように運営しうるという、世界という構造の設計者の視座をより綿密に描き出すための有用な製図道具とメタ物理学はなりうる。

メタ物理学とは、より綿密な、よりリアルな、世界の描出をおこなうための工具である。もし世界に秩序があるのなら、{それが静的でないにしても}時空間的に普遍な構造をもつのだとすれば、我々の観測できる範囲における物理秩序から[物理秩序を生み出す秩序|メタ物理法則]を記述することを可能にするメタ物理学は、真にハードコアのSci-Fiのナラティヴである。それは現在の世の中にあるもののオルタナティヴを語ることではなく、現在の世の中にあるものの発展系を想像して語ることでもなく、世界の構造を一から創造し、その秩序を自ら維持できるほどの強度をもつ、{実在論的な世界を唯一の世界とし、その投影として現実が唯一に定まるという一元論的な現実主義を解体する}多元現実的な転覆の作法であり流儀である。



弐.有神論

宇宙の開闢によって発生した時空間において、生命は誕生した。生命は自然発生した。『自然発生』とは、誰の意思にも意図にもよらない発生である。それはあるべくしてそこにあり、生まれるべくして生まれる。「自然に~する」とは意思と意図に欠いた行為である。自然が宇宙という時空間をこしらえ、自然がそこに生命を誕生させた。そう言うとき、文法上は明らかに自然を作用者としているが、自然は作用者とはなりえないことが文法の外で取り決められているため、自然が作用者ではないことを暗に合意して我々はそのように言い回している。自然が作用者ではないとすれば、自然とは単に場であり、観測者=人間すらもその構成要素の一時の凝聚でしかない、自然の状態変化の一表現でしかないとすれば、たしかに自然は作用者ではない。というのは、自然が人間の形や状態や行動を支配する秩序であるように、自然もまた上位の秩序、膨張速度や宇宙定数、その他一切の物理定数を規定する{という秩序を規定するメタ}秩序に支配されていることが素朴に予想されるためである。

自然が単に場であり、意図や意思をもたないにしても、その当の自然なるものは如何にして発生したのか。という{うっかりすると、自然の上位、その自然の上位のさらに上位……と、無限の遡上を始めてしまうような}根源や生成因についての議論を科学はこれまで扱ってこなかったし、むしろ積極的に切り離してきた。所与の経験的な情報、そして現在ある状態がすべてとして、少なくとも観測可能な空間的範囲、そして人類が科学的な記述を始めた時間的範囲のなかで物理法則は一貫して一定であり、一度として変更がなされたことはなく、実験室であっても外部の公共空間であっても、そして地球の外であっても、時空間に普遍に一定だった。とはいえこれは実際のところ経験的証拠による帰納の仮定でしかなく、必然的な証拠に基づく演繹ではない。単にただそう仮定することで、これまでうまくゆかなかった試しがない、というだけであり、もし物理法則が時空間的に[異方であること/変化すること]が観測されれば、物理学者はすぐにでもこの性質を既存の物理学大系に取り込むように理論を修正・補強することになる。それは決して『超自然』『超常』の現象ではなく、自然においてそれが生起した時点で、それはもう『自然』『尋常』の現象である。というのは、やはり所与の経験的な情報、そして現在ある状態こそが我々に素朴に扱える情報のすべてだからである。数学的整合性・論理的整合性は、それを設計・維持するのが人間自身であるために、人間自身の合意によってその変更が禁じられているが、物理学的整合性に関しては偶然にそこに発見された規則性をとりまとめたものでしかないために、変更を余儀なくされる場合がありうる、ということである。

同様に、自然における意図・意思による何らかの行為、すなわち神の効用を検知したとき、物理学はこれを自然秩序へ干渉しうるものとして、その理論体系に組み込むことを余儀なくされる。{突飛な話に聞こえるかもしれないが、まったく「自然な」ことである。}歴史上、物理学と神学は完全に訣別したが、それは単に「未だかつて神が顕現していない」ためでしかない。今日では、純粋な文脈の外では、『神話』は揶揄の文句とされる。神話は事実の記録ではなくただ創作の物語であり、神は人に崇められることによって存在することのできる仮想の存在とされているのである。しかしいつでも、自然の秩序へ干渉する主体/作用者、について想像することも、それが実際に顕現したときに物理学的に観測することを企てることも、我々は「自然に」できる。

神とは超越者のことである。超越者とは語義通り何者かを超越した者のことであり、この場合は人間がもちうる力能についての超越について言う。それはつまり、人間が他のオブジェクトと自然のなかで相互に干渉するのとは別なる仕方で干渉することや、自然の秩序そのものについて干渉することが、可能であるような作用者/存在のことである。前者{自然における物理的な相互干渉とは異なる干渉}は、単に未知の物理現象、物理学的な相互作用についても言う。それは例えば、魔術などの超常的な力による干渉である。そして後者{秩序への干渉}は、能動的な物理法則の変更ないし追加である。それは局所におけるねじ曲げや、恒久かつ全領域的な改変のどちらも想定される。そしてまた{自然におけるすべての行為者による行為のすべてが行為者の意思ではなく単なる自然自身の状態変化に過ぎないとする}決定論によれば、作用をつくる因があるとすれば、それこそが神である。他のオブジェクトへの干渉が秩序に従った受動の運動ではなく、真に能動の行為となるからだ。決定論によれば、宇宙が誕生した瞬間に、あなたの一生がどのような流れで進行するかは確定している。この決定に抗い覆しうる者こそが[能動の者|神]であり、秩序への反抗者である。

我々=観測者の観測領域内に神が存在するためには、他の自然のオブジェクトと同様に、物理学的な観測が可能であり、神自身が自他という境界面をもつ必要がある。もしその神が不可知であるとすれば、それは自然における行為者なき行為として自然秩序の{新たな}振る舞いとして還元されてしまうためである。この点で、自然そのものが神であるとする汎神論は、神にこのような制約を課すことを必要としない。自然秩序がそのようにあるのも、そうつくられたのも、すべてはそれがただ「自然に」あるからであり、そのあるがままあること、それこそが神の効用に他ならないためである。

実体の{見え}ない神の効用のすべては自然の性質へと還元される。もし自然秩序{ないしその観測された表現としての物理法則}が変異したとすれば、それは作為による変更ではなく、単にそれが変異するものであり、その変異の観測にそのとき初めて成功した、というだけである。とはいえ、ここに作用因として神を仮定したメタ物理学の理論を構築することは十分に可能である。

自然に存在する一切のオブジェクトが、ただ唯一の自然というオブジェクトを構成するための構成要素に過ぎないと見做すとき、作用として我々に見えるものはただ観測される相対の現象でしかなく、オブジェクトもまた観察からもたらされる恣意の区分でしかない。{ヒト・ネコ・ミジンコ・岩など自然のオブジェクトは、ただ観測者にとって意味論的な境界による隔てを観測者自身の手で設けているに過ぎない。}一つのオブジェクトの死(破壊・四散)は、原子・素粒子スケイルではただそれら{原子・素粒子}の結合と反発の話でしかなく、観測者に観測可能な単位としてのオブジェクトの死の前後で、自然を構成する要素の総数は変化していない。あるいはまた素粒子の対消滅でさえ、自然における総エネルギー量を変化させないことから、やはり自然という総体・総量は{状態こそ変われど}一定である。

自然にはただ現象する運動だけがあり、そこに潜む神の息づきを我々はメタ物理学的に{仮定として理論化して}感じることができる。このような潜在するものの仮定を科学がこれまで必要としてこなかったのは、自然は気まぐれを起こさない、という一定不変の静的な秩序観のためであった。自然秩序が変化することがないとすれば、誰もこれには干渉することができないということが素朴に予想される。とはいえ我々がこれまで経験しなかったというだけで、経験の外側では事実として生起していたかもしれないし、また今後起こらないとも限らない。かつて起こりえなかったこと、それは今後も起こりうる可能性の限りなく低いことであり、帰納法に照らせばその生起可能性はゼロだが、メタ物理学はこの論理矛盾した法を切り捨て、自在に法を敷く術を我々に授けることになる。


参. 現働=アクチュアレイト

秩序とは、任意のオブジェクト群を任意の期間において自身の支配下におくもののことである。オブジェクトは支配を受けると、その秩序の定める挙動をとる。我々の身近なもっとも鞏固な秩序に、自然秩序がある。{これは、経験的な観測からその規則性を数式に落とし込められた自然法則とは区別される。}自然のあらゆるオブジェクトは、その運動を自然秩序によって規定される。あるいは、オブジェクトの存在・存続や生成もまた自然秩序によって規定されることである。{自然秩序は恒久的なものと予想されているが、これは単なる予想に過ぎない。}秩序は、静的なものに限られない。支配の様式が変化するとき、それは動的な秩序である。

現働、それは自らのうちに秩序をもつもの、あるいは、他なる秩序のなかにあってその秩序へ干渉を可能とするもの、そのものおよびその振る舞いのことである。{簡単に言えば、非決定論的な行為者また行為のことである。}現働はオブジェクトではない。というのは、オブジェクトの自他という意味論的な境界の画定を企てる一切の観測行為に先行しているためである。そしてまた、何らかの現働が、任意の観測者に観測可能なオブジェクトとの物理学的な干渉によって感得されるとき、これが間接的な証拠から導かれる仮定/仮説であることに注意することが必要である。現働とは観測可能なオブジェクトではない。観測されるのは現働そのものではなく、現働によってもたらされた、観測可能なオブジェクトの運動である。

神はメタ物理学のナラティヴ=語りにおいて現働する。この神は、神話を読んだときに心のうちに現れる想念としての神とは似つかないものである。もし[心が十分につよい強度をもつ|心が秩序をもつ]とすれば、話は別だが。}

隠秘学=occultismとは、公的な検証という公的な場から退いた閉鎖環境において、理論を魔術的に煮詰める営為である。この秘匿は、ナラティヴ並びにそれによって言明されるオブジェクトが限られた者たちの内輪でしか共有されないために起こるものである。そこでは{死者の霊魂が生者へ憑依するなど}実世界/現実には現働しないものが現働する場合がある。秘匿に参加する者全員がその{憑依という}現象の構造について認識を共通することで、そこに対象{霊魂}が現働が起こることになるのである。これは現働をナラティヴの場に埋め込むという、現働を我々自身の手で扱うもっとも原始的な方法である。それはつまり、任意の物理現象について非物理学的な仮説=理論を与え、それを機能させるメタ物理学のナラティヴであり、これには神話についての読解も含まれる。{『限られた者』とは、読者一人でもよい。もしそこに懐疑がないとすれば、神話中のオブジェクトは読者自身の意識・思考の場において十分に現働しうる。}

オブジェクト群ならびにオブジェクトの活動領域とそれらを支配する秩序を規定し、時間的な振る舞いをシミュレートする計算機シミュレーションは、数学的に厳性(計算資源が尽きないかぎり永続する、秩序が厳密に規定される、場/領域を生成するために必要だった読解者をとくに必要としない、など}なナラティヴの方法である。

例示した両ナラティヴはいずれも十分にメタ物理学的な場/領域の生成を可能とするが、これが我々に知感覚される物理現実=世界の{簡易的な}模造でしかないことを我々は理解している。それは{オブジェクトという単位があり、その集合として世界を見出す}『秩序』という存在論的なフレームワークについても同じことが言える。支離滅裂/刹那的な構造について我々が世界と呼ぶことはない。それはまさに、ある人間が「私の頭脳のなかには世界がある」と宣言したところで、その世界の存在を誰も進んで認めようとしないことが該当する。とはいえそれがもし十分に強度をもつなら、そのナラティヴは現働を孕みうる。現働は、それが現働するのに何者の承認も必要としない。

[真理|[物理学|我々が発見する自然法則の法体系]が、実際の自然秩序を完全に表現しているかどうかについて知ること]を解明ができないのは、自然というオブジェクト群が観測者自身の外部にあり、それがナラティヴによる制馭を許さないためである。しかし我々が自ら秩序を規定して場/領域を用意してその再生=プレイを維持するとき、すなわち我々自身が現働となるとき、この秩序を自然として認めるとき、その自然について我々は可制馭となり、真理について既知となる。

{我々の手で生成した自然を、我々=観測者をその支配下のオブジェクトとする自然と何ら対等な実在物=realityとするための}メタ物理学のナラティヴに必要な強度は、経験的に観測される自然の第一義性を抛棄するところにもたらされる。{仮想現実=VRによる感覚刺戟が肉体感覚と完全に置換されている者、『マトリックス]世界の住人、などがその現働の例である。}その強度は当然自身の信念によって到達することができる{が、自らの生命の維持が[非自然秩序空間内|仮想空間内]で完結するようになるとき、この信念の獲得はいっそう容易になることが素朴に予想される}。強度を得たナラティヴァ=語る者は現働する神として自然を自らの手で創造・維持することが可能となるが、そのときメタ物理学はその自然を構造する秩序を生み出すための工具である。


2022/12/30 - C101頒布 『散裂 Vol.2- 真理』所収版

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