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リンゴ泥棒

喫茶店のテーブルに向かい合って、二人の男が話をしている。

筋肉質な男と瘦せぎすな男だ。筋肉質の男の目は細く、髪は短く刈り込まれている。似顔絵に描きやすいタイプだ。顔の輪郭として楕円を描き、目は横棒で、髪は不揃いの芝生みたいに少し描きたしておけば十分だろう。右肩が若干下がっているのは何かスポーツをやっていたからだろうか。

もう一人の瘦せぎすな男は、二重まぶたの大きな目をしていて髪は長い。多分前髪を引っ張っれば鼻の位置くらいまでは届くだろう。その前髪は綺麗にまっすぐ切りそろえられていた。侍が一刀両断したみたいな切り口だ。

筋肉質の男はソファ席に体重を預けながら、店外に降る無音の雨の気配に心を沈ませた。

しばらくして、「なあ、もしだけど、もしも好きな人の直近10分の記憶を消せる力が手に入ったら、どう使う? 好きな人っていうのは、任意の人っていう意味だけど」と筋肉質が言った。

ストローでアイスティーの氷をくるくる回していた瘦せぎすは少し考えてから言った。

「ある日庭にリンゴ泥棒がやってくるんだ。俺はそいつを殺さなくちゃならない。リンゴ泥棒はもしかしたら飢えているのかもしれないし、そうでなくてもリンゴ泥棒は自分の家族を養う必要があるのかもしれない。でも彼はリンゴ泥棒であり、リンゴを盗むこと以外では決して生計を立てない。プロのリンゴ泥棒なんだ。だから俺はリンゴ泥棒を殺さなくちゃならない。そもそもリンゴを奪われるのは俺にとって非常に危険な事態を引き起こしかねないことだ。」

筋肉質は呆気に取られて、細い横棒の間から黒い真珠みたいな目を覗かせた。あとでボールペンを使って、ちょん、と描きたしておく必要がありそうだ。瘦せぎすは全く意に介さない様子で続けた。

「問題は殺し方なんだよ。猟銃でバーンっていうのが楽かも知れない。多分近所の人たちはその音を聞いて駆けつけてくるし、あとで証言をしなくちゃならなくなった時に、『リンゴ泥棒が最初に泥棒に入ろうとしていました。彼は正当防衛で無罪です』と弁護してくれるかもしれない。

でもちょっと待てよ、って思うわけだ。銃で殺したら、その人を殺した感触が俺の中に残らないじゃないか。だから俺はそこで迷う。自らの手でリンゴ泥棒の首を締める方が正しいだろうって。それはとても難しいことだ。まず第一に時間がかかる。第二に力がかかる。第三に、これが一番重要だけど、静かなんだ。音がないから誰にも知られることがない。誰も見ていない中で俺はそっとリンゴ泥棒を殺さなくちゃならない。でももちろんその代わり俺の手には、リンゴ泥棒を殺した感覚がちゃんと残る。

どっちにしろリンゴ泥棒が死んだら、その体は氷が溶けるみたいに徐々にこの世から無くなっていくわけだし、誰にも罪に問われることはない。でもだからこそ、氷が水になるように、リンゴ泥棒も何かに変わっていく。俺には〈リンゴ泥棒をその何かに変換させた実感〉が必要なんだ。」

「えっと、ごめん、俺が変な話題出して悪かったよ」と筋肉質が言った。

しかし瘦せぎすは、月面探査計画の会議にでも出席しているかのような真剣さで、筋肉質に怪訝な目を向けた。そして続けた。

「でも俺には、時に両方の殺し方が必要とされる。だから俺はまず麻酔銃でリンゴ泥棒を撃つ。サイレンサーなんてつけない。もちろんバーンって大きな音を立てて麻酔銃を撃つ。それから俺はゆっくり首を締める。」


筋肉質はもう何も言わず、瘦せぎすの直近10分間の記憶を消した。瘦せぎすは再びアイスティーの氷をストローでかき回し始めた。氷はもうほとんど溶けていた。

傘に守られた小さな安全地帯が、様々な方向にすれ違っていく。

筋肉質は、到底絵には描けない複雑な形をした悪魔に問いかけた。

「あいつ何が言いたかったんだろう。」

悪魔は答えた。

「彼はちゃんと君の質問に答えていたよ。ただ、リンゴ泥棒に抵抗して欲しくなかったんだ。」



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