タイタンの彼女 6/8
「なあ、なあ、北高今年は多分倍率高いってよ」
友達は僕にそんな事を言う。僕がきょとんとした顔をしたからだろうか、彼は顔をしかめた。
「お前、北高受けるんだろ?良いのか?」
そうだった。北高は僕の第一志望校だった。もし、受かる事があれば僕は遂に山に囲まれたこの町の外に出ていく事になる。街の西、シロヤマの下のトンネルを抜けると見えて来る大きな隣町に北高はある。
しかし、どうしても僕がこの町を出ていく想像が出来なかった。出ていくだけの何かを成し遂げたと思えない。別に何も成し遂げなくても出ていける筈なのに、変な話だ。
受験一色になったクラスの雰囲気は、どんどん僕から離れていくみたいに遠く感じた。まるで厚くて暗い雲にずっと覆われている様な嫌な雰囲気が。
どこかで聞いた言葉だと思って考える。それは今日見た夢の中で、目の前に立っていた不思議な女子に言われた言葉だった。
ここに似ていて全く違う世界。
僕にとって隣町は、正にそんな印象だった。
この季節、体育の授業程無意義なものは無い。僕がそう思っている訳では無い。周りの皆の顔を見れば全員がそう思っているのは明らかだった。
真面目に受験に取り組むクラスメイトからは、内申点の為だけに張った虚勢しか感じない。とはいえ僕も元々それほど体育の授業が好きという訳では無いので、あまり変わらないのだろうけれど。
この学校の体育の授業は少し変わっている。
毎月第三週目の体育の内の一回は、どの季節でも始まりから終わりまでずっと校庭を走り続けるという内容に変更される。これは一年生から三年生まで共通して変わらない。この学校の伝統らしいが、変な伝統だと思う。
今日はその第三週目の体育の授業なので、例によって走り続ける事になる。内申点に対して躍起になっているクラスメイトも、流石に第三週目体育には熱意を燃やせない様だ。皆かろうじて走っている様に見える程度しか足を動かしていない。僕も周りに習って同じスピードで走った。
空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうに黒々としている。いっそ雨でも降れば中止になるのに。
それでも男子は女子よりも早く走った。スピードを決めているのは先頭を走っているクラスメイトなので、その理由は分かりようも無い。全員が先頭に習って同じスピードで走るのは、渡り鳥の習性のようなものなのだろうか。先頭を走るリーダーには、どんなにやる気が無くても女子に抜かされるのだけはゴメンだというプライドがあるのかもしれない。
これで何度目か分からない周回遅れの女子グループを抜かしていく。男子よりも一層けだるそうに走る女子グループを後目に、残りの時間をいかに効率よく耐えきるかを考えていた。
ある小さな女子グループを抜かした時、僕は変なものを一瞬だけ見た。
酸素ボンベのようなものを背負った女子が居たような。
僕は走りながら振り返り確認する。そこには見知った女子の姿しかなかった。走り過ぎて幻覚でも見たのだろうか。
その後はどうしてもその幻が気になってしまい、周回遅れの女子グループを抜かす度に注意して探してしまった。結局見えたのは一度きりだったので白昼夢でも見たのだろうと納得する事にした。
それはその日の午後の授業中だった。僕の席は窓際後方二列目にある。授業に集中していないという訳では無いけれど、その時僕はぼんやりとして窓の外に見える校庭を眺めていた。
依然として暗く厚い雲に覆われてはいるものの、結局雨は降り出さない。外が暗い日、蛍光灯でぎらぎら照らされた教室内の鬱屈とした雰囲気がどうにも重苦しい。
窓の外は想像以上に暗く、外を見ていたつもりがいつの間にか窓ガラスに反射された明るい教室内を眺めていた。明暗の差が激しく、教室内はおろかその先の廊下までくっきりと見える。
廊下には一人の女子生徒が歩いているのが見えた。背中には酸素ボンベのようなものを背負って、頭は半球型の透明なヘルメットですっぽりと覆っている。
それを見た僕は、流石にぼんやりとしていた目が覚めた。
振り返り肉眼で確認しようと思ったが、その場所には静かに暗い廊下があるだけだった。
あれは、午前中の体育の授業でちらりと見た女子に違いなかった。
何なのだろう。僕はよほど疲れているのだろうか。それとも、自分では知らないうちに霊感というものが備わったのだろうか。
とにかくそれが気になってしまい、それからの授業は余り集中出来なかった。
ホームルームの時間、教壇に立つ担任の先生は受験についての重要は話をしている。クラスメイト達もその重要な話を真面目に聞いていた。
しかし僕だけはあまり集中していなかった。数学のノートの端に、今日見た幻の女子についての考察をメモしたりしていた。
そしてある結論に辿り着いた。
あれは今日見た夢の中に出てきた不思議な女子だ。
僕の夢の中に出てきたのだから、あれは幽霊では無く僕自身が作り上げた幻影か何かなのだろう。友達とそんな話をした事がないから分からないが、こういう事は他の人でもあるのだろうか。
今すぐに聞けばわかる話だったが、どうにも突飛な話だったので気味悪がられたらと思うとそれは出来なかった。
唐突に忘れていた昔の記憶が蘇るというのは何度も経験したことがある。例えば、幼稚園に通っていた頃の先生に怒られている光景だったり、遠くに引っ越してしまった友達の存在だったり。思い出したい事を思い出す訳では無く、全くのランダムに過去の記憶は突然蘇る。
その夜、食卓で晩御飯を食べている時の事だった。何故かそろそろ僕に電話が掛かってくるような気がして不思議に思った。こんな時間に電話を掛けて来る非常識な友人は流石に居ない。
そして遠い昔、そんな友人が居たという事を唐突に思い出した。その友人がどんな人だったのかは全く思い出せないし、遠い昔というのが何年前なのかもはっきりと思い出せない。
しかし時間に関してはきっと一年や二年では無いと思えた。僕は生まれてからまだ十五年程しか生きていないので、それ以上の時間は感覚として掴みようも無い筈である。
しかしその記憶は五十年や百年も前の事のように感じて、とにかく得体が分からなかった。
自分の記憶を歴史の教科書に載っている年表の様に例えると、僕が生きている過去の十五年は沢山記録が付いている。遡って行って僕が生まれた所から先はすっぽりと記録が消え、その先は年表の横線と年数の印だけがずっと続く。そのずっと先で、さっきの記憶は突然ぽつりと現れる。そんなイメージだった。
僕は随分変な顔をしていたらしい。箸を咥えたままぼんやりする僕を母は怪訝に見た。体調でも悪いのかと聞かれたので、何となく少しだけ悪いと嘘を吐いた。
暗いままの自室で横になって考える。遠い昔に失敗をしたという記憶が、さっき唐突に思い出した友人に何か関係しているような気がして、胸がざわついていた。
感覚だけが残っていて、記憶が殆どないというところが妙に似ている。
僕は遠い昔に何かをやり残したのでは無いだろうか。
著/がるあん イラスト/ヨツベ
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