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寂聴さんの源氏物語

瀬戸内さんは数え年100歳で死ぬと生前に語られていて、今年に入ってから何度も死について語られていたようですので、もうご本人も納得の大往生。お悔やみの言葉よりもご苦労様でしたとニッコリと微笑むのが良いですね。

本当にいろんなことをされて書かれて語られていて人生の達人。

わたしも最期はこんな風だったらなと思える理想的な死なのかもしれません。墓碑に刻む言葉は決めておられています。

「愛した、書いた、祈った」

スタンダールの「パクリ」の「愛した、書いた、祈った」。

良い言葉です。

ご存知でしょうが、「赤と黒」「パルムの僧院」「恋愛論」の近代ロマン主義文学の先駆者スタンダール (本名アンリ・ベイル) は墓碑銘として「書いた・愛した・生きた」という名言を残しました。瀬戸内さんも私と同じくスタンダリアン。心から共感します。

音楽する自分が同じような墓碑銘を用意するならば、「奏でた」か「歌った」を入れないといけませんが。

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<ミラノの人、アッリゴ・ベイレ、書いた、愛した、生きた>

さて、寂聴さんにはたくさんの著作があり、また得度されたのちの僧侶としての活動もめまぐるしく、テレビにも絶えず出演されていましたので、日本で暮らされたことのある方ならば誰もがご存知でしょう。

いま現在も(死去報道の翌日)もテレビのワイドショーなどでは(またはYouTubeで)過去の不倫の話などでもちきりで、いくらでも見たり聞いたりできますので(作家井上光晴の関係は娘の荒野によって小説化されています)あまりそうしたメディアでは出てこないお話をここでは書きます。

<寂聴と光晴とその妻の関係の物語。映画化決定>

源氏物語の現代訳

わたしが寂聴さんを好きなのは、彼女の遺した源氏物語現代語訳のためです。寂聴訳はわたしが初めて通読した源氏訳で、わたしの源氏物語観は彼女の解釈に多分な影響を受けています。

平安時代の古文で書かれた源氏物語は、谷崎潤一郎や与謝野晶子や円地文子など、名だたる大文豪らによって現代語に訳されています

最初は現代日本人は現代語で読まれることをお勧めいたします。いきなり原文呼んでは大事なことを理解できないことよくあります。古典は注釈が必要で、視覚的説明も大事。漫画もだからとても良いです。私のお勧めは「あさきゆめみし」ではなく江川達也版です。


それで瀬戸内訳の何が良いかと問われると、現代語の分かりやすさ。

格調の高い文体では抜群の谷崎訳は良いですが、源氏物語は長いので、挫折しやすいですし、また源氏は何度も読むことで(前後のつながりをしっかりと知っておくことで)より深く理解できる、何度も読むたびに違ったものが見えてくる名作。

まずは通読しないと話にならないのです。谷崎訳は一行ごとに味わって読む名文。読み終えれそうにないです(笑)。

学校の教科書とかで「雨夜の品定め」だけ読んで、源氏物語は光源氏というプレイボーイの話なのか、だけで終わると、あなたの人生にとっての悲劇です。

瀬戸内さんは源氏物語は世界文学史上の最高傑作と常々語られていましたが、この点においては私も同意いたします。

わたしはロシア文学大好き人間で、ドストエフスキーやトルストイの名作群を若き日に耽読しましたが、「カラマーゾフ」や「悪霊」や「アンナ・カレーニナ」よりも世界が広く深いのが源氏物語。

瀬戸内訳は「文学とは文体である」と言われる方には残念な訳かもしれませんが、あえて平易な文体で複雑な解釈が必要とされる部分も簡略化して(格調高き谷崎訳はその点、古典教養を持ち合わせていないと苦痛な読書)とにかくすらすら読める。それでいて女性ならではの描き方にくわえて(おしゃべり口調)彼女の最大の武器である仏教僧侶の視点から読み解く姿勢。

一言で寂聴の読み方をまとめると、源氏物語とは、光源氏が主人公ではなく、光源氏という狂言回しをめぐる、彼が出会う数々の女性(うら若き美女のみにあらず)こそが主人公。

高貴な存在であるがために、数々の女性にめぐり逢う能力を持ち得た男性を中心に据えることで、平安時代という狭い世界に囚われた女性の数々の人生を描き出したもの。これが寂聴訳の本質。

カッコいい光源氏の一世一代のアバンチュールであるなどと言う解釈もありでしょうが(少女漫画「あさきゆめみし」的な解釈)得度した僧侶寂聴は源氏物語は仏教物語であると喝破する。

因果応報(父の愛人を寝取った自分は、やはり自分の愛人を息子に寝取られる)や、移り変わる華麗な王朝物語のような情景には諸行無常が語られて、行き場のない愛憎の果てには生霊にまで変わり果てる女性、老婆になっても「女は灰になるまで女である」を実践して孫のような源氏と愛し合う女性、愛の限界を知り出家を望むも許されぬ女性、そして二人の貴公子に愛されて愛欲の果てに人生を悟り、出家する女性。

時間的にもこれほどに広がりのある文学は極めて珍しい。

とにかく源氏は通読して端から端まで物語を知り尽くして、そのうえで読むとますます面白い。

シェイクスピアにも似ていますが、シェイクスピアは宗教問題を全く語らぬ文学で、源氏の仏教的視点より語られた世界の方が深いと私には思えます(リア王もマクベスも救われないで終わるという人生観は辛すぎる、ハッピーエンドな喜劇の恋物語もそこで終われば物足りない。源氏は愛し合った男女のその後を描いた物語、男女の本当の物語は愛し合ったそのあとにあります)。

男性遍歴豊かな寂聴さんの人生はなんだか宇治十帖の浮舟の人生も追体験して、でも受け身の浮舟とは違って、自分から男に身をゆだねる様は源典侍のようでもあり、源氏物語には寂聴さんの分身がたくさんいらっしゃるのですね。

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海外に行って教養人に出会うと大抵の人は源氏の名を口にします。それで知らないと恥かきますよ。知らなくてもそれだけだけど(別にいいけど)語れるとあなたは一目置かれる存在になります。わたしは語りまくっています(笑)。英語に訳すといろいろ興ざめなのですが。

寂聴さんが捨てていった数多くの男たちはこの源氏物語を訳出するうえでの人生の肥やしになっていたのですね。これで捨てられた男たちもきっと浮かばれることでしょう(笑)。

「恋多き女性=瀬戸内晴美」は最後には出家する(源氏物語そのもの)。だからこそ罪深き恋の道に堕ちた男性も女性の両方に共感しあえるのですね。

人生の達人

個人的にはマスコミの集中砲火に会って世間的に公開死刑とされた小保方晴子さんとのツーショットが忘れられません。

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わたしは文芸春秋で読みました。

Petrosky Tomio 先生はご自身のブログで

小保方さんは、利権と腐敗した偏差値秀才集団の被害者です

と書かれていますが

わたしもマスコミの偏重報道を読み、洗脳されて「この女とんでもねぇなあ」と同調していたクチですので、世間の醜さと物事を両面から見る大切さなどをこのブログなどの情報からかみしめました。

そうまさに眞子さま報道と同じ手口。日本文化でしょうか?それとも人間社会の性(さが)?

だからその先の小保方さんにあるのは、出家のようなことじゃないかなとも思えます。なので寂聴さんなのですね。ホリエモンもYouTubeに寂聴さんに救われた話をYouTubeで公開しているようです。

この世の醜さ、愛欲の耐えがたきを味わったのならばその先には?

アンナ・カレーニナのように自死したり、アリョーシャ・カラマーゾフのように革命運動の首領に祭り上げられて現世を変えようとすることよりも、諸行無常の人間の条件を受け入れて、宗教的な法悦を求めるしか道は遺されていないのかもしれません。

そうした生き方をまさに実践された寂聴さん。テレビへの露出度が多すぎて軽視される方もたくさんおられるでしょうが、やはり人にはできないこと、世間から見捨てられた人に救いの手を差し伸べる態度(自分もそうだから)は素晴らしかったです。

瀬戸内寂聴訳の源氏物語、全ての日本人にお勧めです。中学生でも読めますからね!

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。