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亜麻色の髪の乙女

音楽を絵画より好んだために、絵を描いて絵を楽しんだりする人生経験はあまり持たなかった。

ルネサンス時代の写実画や、光と闇の対比による陰影の美を極めたバロック絵画、そして19世紀後半の印象派の名画を長じて好むようにになったのだけれども、自分の最大の関心は音楽に注がれてばかりで、西欧のクラシック音楽の鑑賞と演奏にひたすら傾倒した。

だからこの世には音楽ほどに美しいものはないという言葉に心から共感する。

視覚の美しさにはどこか限界があるように思える。

本当に美しいものは現実世界にはなくて、自分が都合のいいように美化した思い出の情景ほどに美しいものはないとさえ覚える。

本当の美は追憶の中にある?

本当に美しいものは言葉にはならず、本当に美しいものは英語では Beyond Description というフレーズがしばしば使われる。

筆舌に尽くしがたいと訳されている。書かれた言葉や舌で語られる言葉を超えているのだと。

西洋近代音楽の生みの親であるフランスの印象派音楽家と呼称されるクロード・ドビュッシー (1862-1918) の言葉に

言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる

というものがある。

音楽は、言葉よりも視覚的な美よりも上位にあるという思想だ。

本当に美しいものは幻想の中、またはひとの想像力の中にしか存在し得ない。言い表せるとすれば抽象的な音でしか表現できないと。

わたしは心からこの言葉に共感する。

言葉は美しさを具体的な何かとして言い表してしまう。

美しい対象が絵や写真になると、美しさのイメージは言葉以上に限定されてしまう。

視覚的に自分が感じ取った美しさは表現され切れていないとさえ思える。

音楽は曖昧模糊な分だけ、鑑賞する人に限りのないイメージを喚起させる余地を残すことが何よりも優れているのだけれども、音楽がわからない人は音の世界からは何も思い浮かべることができないのかも。

音楽を極めた人で音楽とは物理的に官能的な音でしかないという考え方を持つ人もまたイメージをまったく思い浮かべることがないのかもしれない。

さて、長い前置きはここまでにしよう。

前述のドビュッシーには、音によって描いた、わたしが思うところの音楽史上最高の美少女の肖像画がある。

黄金の亜麻畑を背にした亜麻色の髪の乙女(フランス人女性)

ラジオから流れてきたこの曲を初めて聴いたのは高校生だった頃だった。

ヴァイオリン編曲版だった。

演奏者はパールマンだったかもしれないが、名前は失念した。素晴らしく繊細ではかない調べがいつまでも耳に残った。

それ以来、ドビュッシーの音の肖像画がわたしの理想的な少女像の原型となった。

詩の言葉の語った少女に憧れるひとは少なくないかもしれないけれども、音の描く少女にはどうだろうか。

音は雰囲気しか伝えない。

残りの部分は想像力で補われる。

島崎藤村の「初恋」や三好達治の「甃の上」、ダンテやペトラルカやゲーテやプーシュキンの謳った少女も永遠不滅かもしれないけれども、わたしは音の世界の少女に憧れた。

変ト長調(フラット記号が六つ)の下降する音階が秘めやかに描き出す優しい少女の肖像。

楽譜上のドレミファのドの部分が変ト長調の第四音となるために(いわゆる音階のファ)ドにはフラットがついて、楽譜上でドに見えても、実際には「シ」の音になることがややこしい。異名同音でC♭はB♮なのだ。

音楽の伝える女性の肖像は、ドのフラットのように異世界の音楽のようで、どこか神秘的な面影をたたえた少女のシルエットが思い浮かぶ。

きっと遠くから見ているだけで、彼女に声もかけることもできずに見ているだけで憧れの中だけで出会える女の子。

そんなイメージ。

39小節しかない、2分半ほどのピアノ小品を心から愛している。

前奏曲集としてまとめられた小品集の第八曲目
冒頭には題名は書かれていない
「tres calme et doucement expressif」
「非常に穏やかで優しい表情を付けて」
Calmeはもちろん英語のCalm
doucementはGently, 英語とはかなり違うけれども
一分間に四分音符が66というテンポなので、秒速とほとんど変わらないゆっくりした曲 
曲の終結部分、
murmure et en retenant peu a peu 
「囁くように、そして少しずつ遅くして」
Murmureは英語のMurmurと同じ、Retenantはイタリア語ならばリタルダント
そして局の一番終わりに「…」と躊躇うように前置きしてから
「亜麻色の髪の乙女」と書かれている

暗譜さえしていて、いまでも定期的に弾いている。

近代ピアノの性能を活かした残響の効果が素晴らしい余韻の音楽。

きっとドビュッシー特有の近代的な響きを嫌う人さえも、この曲ばかりにはただ美しいと聞き惚れる。

クラリネット版も素晴らしい。

クラリネットの最美の最弱音のによって清楚な少女のイメージが柔らかに広がってゆくよう。

オーケストラ編曲版はイメージにさらに広がりを与えてくれる。

でも大きな音のために無垢な清楚さが失われて、艶やかなゴージャスな成熟した大人の女性のイメージが浮かんでくる。

チェロ合奏版ではまた別の味わいがある。優しい弦の調べの少女の肖像。

ちなみに作曲したドビュッシーはフランス高踏派詩人ルトント・ド・リール Charles-Marie-René Leconte de Lisle (1814-1894) が1854年に発表した詩に触発されて、この音楽を思いついたらしい。

20世紀の作品としては、あまりに単純で、あまりにも美しい作品も発表は1910年のことだった。

生成AIによる「亜麻色の髪の乙女」

亜麻色の髪は金髪なのだと思われているかもしれないけれども、一言で金髪といっても、色合いにはいろんな種類がある。

亜麻色は茶色がかった金色で、栗毛色にも見えるような髪の色。

明るくないくぐもったような金髪。または少し黄身がかった茶色い髪の毛。

茶色がかった亜麻色の髪の少女(日本人女性)

「亜麻色の髪」という言葉に魅せられてしまったためか、黒髪よりも茶色がかった淡い茶色の髪の女性に私は惹かれてしまう。

ルノワールの亜麻色の髪の乙女

フランス印象派画家のルノワール (1841-1919) の有名なこの少女、まさに「亜麻色の髪の乙女」。

印象派絵画でも最も美しい女性像だといわれている一枚。

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
Portrait of Mademoiselle Irene Cahen d'Anvers(Portrait d'Irène Cahen d'Anvers)
From Wikipedia

ルノワールの油彩は素晴らしいけれども、せっかく生成AIがつかえるのだから写実化してみる。

実写版

ルノワールは亜麻色の髪が大好き。

次の名画にも亜麻色の髪の少女が描かれている。

ルノワールの油彩オリジナル

ルノワールは人生の陽性な部分ばかりを自身の絵画の主題とした画家だった。

人生の悲しみや寂しさよりも、生きている喜びを描くことを喜びとした。

別の画家パブロ・ピカソは若いころ、社会底辺の人々の人生の悲哀を集中的に描いて「青の時代」と呼ばれるメランコリーが心を打つ絵画群の一時代を築いたが、ルノワールは一生涯、「亜麻色の時代」を描き続けてゆこうと決めたのかもしれない。

美しい亜麻色の髪の少女たち。

実写版ルノワール
特に何も指定しないと元のモデルから離れてしまって理想化して美少女化してしまう
ごく自然な顔立ちの少女を生成することは難しい

Noteにはわたしのように画像生成を楽しまれる方のたくさんの投稿があるが、たいていは比類なく美しい少女の肖像ばかり。

いわゆるグラビア写真なのだが、日本には美人画という顔立ちの美しい女性の肖像画を作る伝統がもう何百年も前から存在しているので、江戸時代の浮世絵からブロマイド写真を経て、現在では生成画像というわけなのかもしれない。

私の好きな竹久夢二は大正ロマンの美人画だ。

美しい肖像画を見ると優しい気持ちになれる。

心は晴れやかになり、楽しくなる。

美しさはそういう心地よい感情を引き起こす。

日本女性の亜麻色の髪

亜麻色の髪をした日本人女性は、ドビュッシーよりもすぎやまこういちの作曲した歌謡曲のほうが想起されるイメージとしてはふさわしいのかもしれない。

女性の美しさには様々な要素があるけれども、亜麻色の髪は女性の美しさの中でも最も素晴らしいものの一つであることに、だれも異論は挟まないことだろう。

黒髪の大和なでしこはもちろん素敵なのだけれども、わたしは淡い亜麻色の髪が本当に大好きだ。

ドビュッシーとルノワールに魅了された人生を送ってきたからなのだろうか。


楽曲解説はこちらの記事が秀逸です。ピアノを弾かれる方はご覧になられると役立ちますよ。


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