見出し画像

【創作大賞応募作】 ロックダウン・ラヴ (Lockdown Love) 《その二》 

<5>姉と妹 Siblings

 沙月は泣いた。泣きじゃくった。止めどもなく泣いた。
 妹の部屋。沙月が母と住んでいる、賃貸の古い2DKとは似ても似つかわしくない大きな家の、弥生の部屋は陽当たりの良い南向きの部屋だ。陽は登り尽くして頂点を極めた。これから落ちてゆく。

 沙月からの電話の翌日、弥生は姉を父の家に呼びよせた。自分以外は誰も家にいない時間は昼からだと伝えると、沙月は時間通りに、かつて自分が住んでいた古い家に姿を現した。
 可愛いくなくて、お洒落なデザインも何もついていない、黒い布マスクの下に隠された沙月の顔は小顔になり、体もまた一回り小さくなっていることを、弥生は一目で理解した。
 悲しみは誰かに共有してもらえると半分こできる。誰にでも分けあたえられるものではない。分けあたえても、突き返されると、悲しみはますます増幅する。弥生は沙月が分けあたえてもいいと思える、数少ない存在だ。 
 沙月の話はとぎれとぎれで、とぎれるたびに、大粒の涙が、痩せてくぼんだ瞳から、こぼれた。あと何時間泣き続けてゆけば、アリスのように、この部屋を涙で水浸しにしてしまえるだろうか。
 弥生は悲しみをそのままに受け止めて、一言の問いも交えずに、ただ耳を傾ける。そして、沙月の悲しみを炒め物の調味料にして食べてしまうことにした。泣きじゃくる沙月をそのままにしておいて、台所に立つ。泣きたいときには思い切り泣けばいい。

 冷凍ミックス・べジタブルにあらびきソーセージ入りの簡素なチャーハンに、インスタントのチキンスープ。沙月は久しぶりに出されたまともな食事を総べて平らげた。手料理の暖かさは、涙の海であえぐ少女の冷え冷えとした心の中にまで温もりをもたらした。
 こしらえたチャーハンにはほとんど手を付けないで、沙月の顔をじっと見つめていた弥生は、吐き出してしまいたい悲しみを平らげてしまう沙月の若い食欲に安堵感を覚える。
 こけた頬に輝きを失った痛んだ髪。失われた恋に痛めつけられた生傷だらけの沙月は、雨に濡れて、ぼしょびしょになった迷い込んだ子犬。どこかでこしらえた生傷を必死に嘗め回しているのだけれども、傷そのものよりも傷ついて誰も介抱してくれないことに悲しんでいるような子犬。
 こうして姉と二人きりで逢うのは半年ぶりのことだった。非常事態宣言が出て以来、不要不急の外出を慎むことが社会的に求められて、別々の家に住む姉妹は出会わなくなった。外界からのロックダウンを決めた沙月のスマホはシャットダウンされていて、血の絆さえも遠いものにしてしまっていた。
 がつがつとむさぼるようにチャーハンを食べている沙月を眺めながら、弥生はこれまでに子供のころから見た幼い頃の沙月の泣き顔を思い出していた。
 自転車にうまく乗れずに転んで足をすりむいて泣いていた沙月。すぐに大声を出す父に叱られて泣いていた沙月。小学生の頃には、よく男の子にいじめられたと泣いていた。
 沙月がまた自分の目の前で泣いている。もう小さな少女の姿はしていない沙月。いまもまだ土砂降りの雨の中で濡れていた子犬のように泣き虫な沙月。奇妙な懐かしさを覚えた。

 懐かしさは弥生をも小さな少女へと変える。
 子供のころ、弥生は余り泣かない子供だった。保育園に定刻通りに迎えに来ない母を待ちながら、沙月は泣いた。弥生は泣かなかった。時間の概念をまだ正確には持ち得ていなかった幼さのためではない。弥生には母のお迎えが少々遅れようが、保母の先生も周りにはいた。保育園は楽しいところだ。
おもちゃもたくさんあるし、お友達もたくさんいる。なぜお姉ちゃんは泣くのだろうと、小さな弥生は不思議な生物でも眺めるように、さめざめと泣く沙月の髪をなでながら慰めた。
 感情を高ぶらせない落ち着きのある子だと、弥生は大人たちに評されたりもした。感情的で情緒の起伏の激しい沙月を見て育ったためなのだろうか、弥生は自分は周りにいる少女たちのように黄色い声をあげたり、彼女の周りのほとんどの同級生たちのように女の子らしい遊びやら恋愛にも興味を抱かなかった。
 特別な友達を作ることもなく、一人本を読んだりすることが好きな静かな少女は、そのままもの静かな人生を独りで生きてゆく気配さえも漂わしていた。弥生は美しい少女に成長したが、人並み以上の容姿と自ら存在を主張しない透明感は弥生を神秘のヴェージュをまとわせて、外を歩けば道行く人はふと振り返らせた。でも弥生は足早にその場を立ち去って、振り返る人は美しい幻でも見たような想いに捉われた。弥生は世の期待に背いて、あえて地味な服を着て、ぶかぶかの服を好んで身に着けた。
 見た目で判断されることのない、文章だけのオンラインの世界だけを自身の社交の世界として選んだ。彼女の書く世間を斜めから覗き見る文章はネットの世界で一躍脚光を浴びて、彼女のハンドルネームは一部のユーザーの間では伝説化した。
 女子らしい可愛らしさが大好きで、女子らしい恋愛脳と地図を読めない方向音痴と数字の世界への無理解を備えている沙月は、弥生にとって、この世界で誰よりも女性らしい人だった。女は泣くもんだ、と余り泣くこともない弥生は自分もまた生まれ持っているはずの女性性を他人事のように客観視した。

 弥生は食べ終わったチャーハンの皿をテキパキとかたずけて、心に重たい鋼鉄の鎧を纏った堕天使のためにアールグレイを入れた。重たい鎧は沙月に与えられた思い罪なのか。人を愛するなど、してはいけなかった行為なのだ。アールグレイには、苦しまずに死なせてあげられる毒を一滴ほどたらしてあげられるだろうか。二人はマグカップにティーバック一つを二人で分けてお湯を注いで、少し薄めの同じお茶を一緒に呑んだ。
 香坂との思い出を心の動画と呼んで、いつも同じものばかりを再生していると打ち明けると、弥生は心の動画に興味を持った。
 弥生もまたたくさんの動画を撮りためている。弥生の場合は正真正銘のディジタルな動画。緊急事態宣言のために、外に出なければならないという日常的苦痛から解放された弥生は、鍵の軽い電子キーボードを叩いて録音した演奏を動画サイトに時々アップロードした。だが何十というテイクが作られても、そのほとんどはお蔵入り。古い録画にはどれにも思い出があり、削除ボタンはまだ押せないでいる。どれほどたくさんの削除ボタンを押せないでいる録画が沙月の心のゴミ箱には空っぽにされないで捨て置かれているのだろう。
 涙目の沙月の傍に置かれてる楽器の電源を入れて、弥生はキーボードを撫でるように奏でながら小さな声で歌ってみる。沙月がいることを全く意識しないで、何となく引きたくなったらから弾いてみた。そんな演奏。Beatlesの『I Will』。

And when at last I find you
Your song will fill the air
Sing it loud so I can hear you
Make it easy to be near you
For the things you do endear you to me
You know I will
I will

https://www.lyricfind.com/

 失恋した沙月にはまったく場違いな永遠の愛を誓うラヴソング。愛の永遠をどれほどのシンガーが歌い、そして星の数ほどもある世界中の恋愛の中で、どれほどが永遠と呼ばれるにふさわしい終わり方をしたことだろうか。
 Your Song will fill the air (君の歌声でそこらじゅうがいっぱいになる)
という歌詞が弥生は好きだ。
 The things you do endear you to me (君が心を込めて僕のためにしてくれること) っている言葉に愛ってこんなものなのかと男女の愛を経験したことのない弥生は夢想する。
 誰かのために一生懸命に愛せるって素晴らしいとおもう。恋愛は飛翔であると何度も読んだ。高く高くこれまでに見たことのない高みにまで昇り、遠い遠い地平を鳥瞰する。高い空の大気は息するにはあまりに冷たくても、傍にいる愛する人の手を握り締めると燃え上がるほどにも熱かった。自分自身が太陽になれた。だが、その天の頂きより、下降すること、転落してゆくことなど、思いもしなかった。大空の頂点の大気を吸った肺は、もはや地表の汚れた空気を吸い込むには苦しくて、一度高みをその眼で見た、恋の翼をなくした人には地表は余りにも暗くて寂しいところ。
 空のてっぺんを見たことのない人は世界がどれほどに美しいかを知らない幸せを生きている。一度でもあの高みを知ると、すべては色褪せてしまう。
「お姉ちゃん、あなたの心の動画をわたしに一つ再生してみて。面白かったら、いいね!を押してあげるわよ」
 弥生は沙月のおでこに右親指を押し当てる。「再生ボタン押しました!」。涙で潤んだ眼の沙月は少しばかり微笑んで、香坂と初めて言葉を交わした日の映像を再生する。沙月は弥生の手を取る。 
 「向かい合っておでこを引っ付けて、テレパシー」という弥生の言葉に「わかったわ、あの日の動画を弥生のために再生」と額を引っ付けあって俯いて目を閉じる沙月。

 再生される情景。白いフレームの中。
 講義のたびに香坂の後ろ姿を見つめている沙月。森准教授がアメリカの詩人シルヴィア・プラスを取り上げた講義が終わる。香坂の横顔を眺める時間の長かった沙月は板書に使用したタブレット端末を閉じて鞄に入れようとしているとき、香坂が教室の上の方に歩んでくるのが目に入り、沙月の一つ前の列で足を止めて、「僕ですか」と自信なげに問う。
 クラスメートは三々五々に退出してゆくが、女子学生たちの数人は教室の奥の二人を見て見ないふりをしている。
 「なんだかいつも、ジィーって見られている気がしてたから」
 半年見つめられていた鈍感男の言葉に、傍目から見ても顔を赤らめている沙月はコクリと頷く。子犬のような純情な恋の始まり。日葵たちがニヤニヤ見てる午下りの教室で。

 雛鳥だった沙月は大空を舞う恋の翼を得て舞い上がる。何もかもが楽しくて嬉しくて、恋する少女は道ゆく見知らぬ人にも微笑んで愛を振りまいてゆく。愛の幸福感は誰に対しても親切で、沙月の心から溢れ出るのだ。
 一緒にモノレールの切符を買って、緑の公園に行き、二人して歩く。
初夏の木漏れ日は眩しくても、その陽光を全身で浴びたままでいたい。
光の中、このまま手を繋いでくれた彼とずっとずっと歩いていたい。だが、次第に、心の中に美し出されるあの日の美しい映像は、どこか陰りを帯びてゆく。

 高い樹々の間から漏れ落ちる陽は光の強さの分だけ、陽の当たらぬ大地に深い影を刻む。穿たれた大地は暗く、樹木の間を通り抜けてきたさらなる光の矢は照り返して輝く。蝉の声は遠く、木漏れ日を浴びた緑の葉は、林の中を緩やかに漂う、肌では感じる事さえもできないほどの淡いそよ風に揺れる。薄い葉は光を帯びて内より光り、金色な光を帯びる。太陽光の熱量を得て輝きが増すと、また別の情景が浮かび上がってくる。

 白い映像の向こう。

「…君は一緒にいるだけで楽しいっていう、でも、僕には何か違うんだ」
最初は戸惑い、信じられずにおどけて、驚いたふりをして見せる。「ちょっと冗談だよね」スマイルを可愛らしく、それからおどけてヘラヘラとしてみせる…

 映像が次第にぼやけてく。涙のフィルターは世界を曇り硝子の向こうの風景へと変えてしまう。沙月の心は涙の波に侵食されてゆく大陸の一部。
その先端にある灯台のある岬は高波に呑まれてゆく。
 晴れた日には遠い向こうにのぞめていた島の孤影はもはやどこにもない。
暴風雨は世界を暗くしてあなたの土地もわたしの土地も区別されない。
全てが等しく濡れて丘の上で草を食んでいた羊たちの姿はない。
 大地は揺れて、揺れた大地はいつしか、ひとところにとどまる。そうして肩を震わせて悲しみを流した沙月を弥生は抱きかかえる。
 小一時間ほどして、沙月の海に凪が訪れる。弥生は、沙月が香坂に捧げた幼い想いはまだ愛じゃないと勝手に決めつけるが、誰かのことをここまで大切に思える沙月を少しばかり尊敬する。
 「思い切り喋って思い切り泣くと元気になるんだよ」
 弥生は沙月の濡れた頬にキスをする。沙月は小さく微笑んで強く弥生を抱きしめる。

<6>声を聞きたい I want to hear your voice

 陽の落ちる前に沙月はかつて家族四人で住んでいた古い家を出て、駅に向かう。母の住む家の近くのコンビニで飲みやすそうなアルコールを購入する。帰り着いた狭い家の台所で酎ハイに甘いジュースを混ぜたような安酒を一気飲みする。
 空っぽの胃に大量に注がれるアルコール飲料水。酒を飲みなれていない酩酊する二十歳の沙月はスマホ操作を少しばかり誤りながらも、言葉を伝えるべき相手の名前を根気よく探す。たくさんの名前がスマホの連絡先のリストに浮かび上がる。たくさんの名前の中で、ロックダウンした沙月にコンタクトをとろうとしたのはほんの幾つかだけだった。必要な時にそばにいてくれて気にかけてくれる人と、そうでない人。そんなそうでない人の一人を、ようやく探りあてる。
 「コウスケ」。下の名で呼び合えるような二人でいたいと沙月はそう登録したけれども、「コウスケ」と香坂のことを下の名前で呼んだことは一度もなかった。そこまでの関係になれなかったのだと何度も沙月は泣いた。香坂は沙月のことを、やはり大川と呼んだ。
 私一人が思いあがっていたのだと何度も何度も沙月は後悔し、本当にわたしのことを好きになってくれる前に彼は別れることを決めたのだと、今では信じ込んでいる。でも、それでも、聞いておきたいことがあった。伝えておきたいことがあった。
 まるで年上であるかのような弥生の言葉に勇気づけられた。
「何度も何度も香坂さんとの思い出を、心の中で再生してばかりでは、そこから動けない。古い動画を何度も見ていれば新しい発見ができるかもしれないけれども。動画を別の視点から見れるようになるには、何らかのきっかけがいるんじゃないかなあ。
香坂さんに逢いたいって伝えなよ、
もう一度しっかりと話し合いたいって。
心の動画を独りで再生ばかりしていてもダメ。
新しい動画を作らないと。
もしかしたら、沙月も古い動画の上に、新しい動画解釈を上書きできるかもしれない。完全に削除しなくてもいいの。上書き保存するのよ」
 男は恋をしてそれを失っても、その恋を決して忘れたりはしないで、恋の記録を書き遺す。女は恋を失えば、新しい恋を探して、そして新しい恋で古い恋を塗りつぶす。18世紀のイタリアのジャコモ・カサノヴァだか、モーツァルトオペラの台本作者のロレンツォ・ダ・ポンテだかが、そんなことを書いていたと、ロックダウンして、にわか読書家になって本の中で見つけた言葉を沙月は思い出す。

 失恋の記憶は消えない。失恋動画集を心のフォルダーにため込んでゆくのは辛い。もうハードドライヴの許容量も限界だ。メッセージではもどかしい。
 声を聞きたい。どうしても肉声を聞きたい。メッセージでは駄目。連絡先リストの名前の「コウスケ」を押す。
「携帯電話」を選択。四度鳴るコール音。

 「あの… 大川沙月です。」
 沙月の声はいささか裏返っているが、酒神バッカスの魔力は沙月を世界中でだれよりも勇敢な女に変える。しばしの沈黙の後、いささか狼狽気味の香坂の声。震えている。
「…お久しぶり」
「…逢いたいの」
「どうしたの?」
「逢いたいの、どうしても逢いたいの、
どうしていいのかわからないの… 
だからいまあなたに電話してる… 
この数週間、あなたと逢わなくなって、
わたしもう駄目なの」
酩酊している自分が何を喋っているのか、沙月は自分でよくわからない。
理性の中の沙月は香坂の声など聴いてはならないといさめるが、普段呑まないアルコールの力は、心の牢獄のなかの沙月を幽体離脱させて、ここまで抑圧されてきた恋情を想い人のもとへと運ぶ。

「逢いたいの、
どうしても逢いたいの、
逢ってください」
未練がましい言葉がこぼれてくる。
「緊急事態宣言が出ていて、大学でさえオンラインだ、このまま話を聞いているだけじゃだめか」
「 …恋愛は不要不急なの?」
「君のことを嫌いになった訳じゃないんだ…」
 優しい言葉に沙月は心ほだされて、もう萎えて動かなくなっていた恋の翼がふたたび生気を得る。舞い上がるための気力を取り戻してゆく想いがした。優しい人だったという過去形は、いままさに優しい人であるという現在形に変わる。
「大川。いまは女の子と映画を見に行ったり、
海に遊びに行ったりするよりも、
勉強をしたり、バイトしたりしてお金が欲しかったんだ。
でも世界はこんな風になってしまって、
逢いたい人に逢いたくても思うように逢えなくなっている。
いまでも付き合ったままならば、
どんなに苦しくなったのかなんてことも思える。
君のことを嫌いになった訳じゃない。
こんなこと言える義理じゃないけど、
僕のために思い悩んだりしないでほしい。
自分はそんなつもりで付き合うことをやめたわけじゃなかったんだ。
でも・・・」
 自分は君には相応しくないなんて言葉は聞きたくはなかった。それは云わなかった。勉学を恋愛よりも優先させる?これもよく聞く相手を振るセリフ。こんなに平凡な言葉が出てくることに残念という想いが、いつまでも引きずっている思いを覚ませてくれる、はずがなのに、酔いに制圧されてしまった沙月の脳は、もうこれ以上の言葉を知覚できないし、もう彼の言葉に応えることもできない。

 沙月のスマホは手のひらから零れ落ちて、床の上に大きな音を立てる。
「大川?どうした?大川?…」香坂の声がこだまして、幽体離脱したかりそめの沙月は捕縛され、ふたたび心の牢獄の格子の向こう側へと連れて行かれてしまう。沙月はそのまま夢のない深い眠りの中に沈みこんで行く。

<7>流れに丸く削られて Carved by the water current

 ソファーの上で目覚めた沙月は、全てが夢であったのではないかと辺りを見回すが、床に転がるスマホの履歴記録から、確かに香坂と会話したのだという事実を確認する。新着メッセージが一つ。
 目覚めた沙月の体の上には、知らぬ間に薄い毛布がかぶせられている。

 メッセージは自分を苦しませている薄情者から。
「Love is patient and kind. I need time. Call you later」
「あほ、また気取って英語で書いて。
なにが愛は忍耐強くて親切や、恋は待てないし、
セルフィッシュ。なんにもわかってない」
 香坂とチャットするときは英語で書く決まりにしていた。漢字やカタカナ変換を必要としないので、日本語よりも速く打てて、二人を繋いだ共通項は英語の国への憧憬だったのだから。
「Call you later, Call you later … When?
Call you laterって電話しないって意味でしょ。」
 涙が溢れだす。涙の泉は間欠泉のように定期的に満ちて、そして泉にとどまることのない量の分だけ零れ落ちてゆく。
 新たな想いが沸き上がる。
昨晩の動画を再生したい。香坂の言葉を思い出したい。バッカスは別れた男に電話をかける勇気と引き換えに何を話したかの記憶を奪い取ってしまったらしい。香坂の言葉が何一つ思い出せない。またかけてみたくとも、バッカスの助けなしには到底出来そうもなかった。そして毎夜のように酔っていたあの頃の母を思い出した。

 沙月の頭の中で懐かしい香坂の声が響く。
「大川のしゃべる英語ってきれいだよな」
「僕のしゃべる英語はいつまでたってもカタカナで、もうどうしようもない。大袈裟に巻き舌したら、周りの人笑うし」
「今日の映画の英語、さっぱりききとれなかったわ」
「今日、森先生が授業で読んだ詩はどう思う?」
「大川のイヤリング、その服とよう似合ってる、可愛いやん」
「僕はいつか外国に行きたい。
日本におったら全然英語覚えられへんし。大川はこれから何をしたいや」etc.

 過去動画が再生される。また振出しに戻る。そして堂々巡り。いつまでたっても終わらないし、進歩しない。沙月もそのことを知っている。それでも小さな部屋の中で、ロックダウンしたままの沙月には、どうすればいいのか分からないのだ。
 いつしか、どうして自分は香坂康介を好きになったのだろうと考え始める。大学のクラスメートでずっと気になっていた男の子。寂しげで、いつも一人で何かを夢見ていて、ここにいてもここにいないような人。しかし自分が本当に香坂が誰だったのか知らなかったという事実に気づく。恋ってそんなものなのか。そして、たまたま出会って気が向いてひかれあっただけ?
 香坂は外国に行きたかったんだと思い出すが、世界的伝染病が猖獗を極めるこのご時世で、どこか遠くへ行きたくとも叶うはずもないとおもう。コロナ禍は香坂を自分の傍へ引き留めておく絆のようにさえ思えた。コロナがなければ、もう香坂はどこかへ旅立ってしまって、日本にはとどまってはいなかったのかもしれない。
 死神は全てのものをひとつところに係留させるのだ。ある授業で聞いた詩句。死は人類を繋いでいる?
 香坂を知るようになったあの日の授業。そしてまた再生される動画。そして堂々巡り。

 弥生の部屋の部屋の床に転がっていた楽譜。ある地点で必ずリピート記号のついた楽譜の上から一番最初に引き戻されているような毎日。どうしてもリピート記号の先までは行けない。でも、それでも、どんなに涙を流しても、どんなに過去動画を再生しても、それでも自分は生きている。ブラウスを脱いで下着姿になって姿見の前に立つ。痩せ衰えて骨と皮だけのようなわたし。胸の肉さえ削げ落ちてブラジャーまでずれ落ちそうだ。
 「外国に行きたい、どこか遠くへ行きたい」という香坂の言葉は沙月に、ずっと忘れていた「生きたい」という言葉をふと思い出させる。

 沙月は部屋を出る。空っぽの家。台所の食糧庫をまさぐって調理しなくてもすぐに食べることのできるものをテーブルの上に無造作において、食べ始める。冷蔵庫にはほとんど何も貯蔵されていない。母親はほとんど外食で、もう二十歳の大きくなった娘の食事の面倒など、ほとんどみない。ましてや引きこもりの沙月には干渉しない。
 夜中に起き出して何かを食べているらしいことは察知しているようだ。ときどきレンジでチンすればいい一皿の食事がダイニングテーブルの上に置かれていることもある。今朝は酔いしれて泣きながら眠りに落ちた自分の上には薄い毛布が掛けられていた。
 棚の中にはポテチなどのジャンクな食品がほとんど。チキンラーメンもそのまま袋を開けてがつがつとむさぼり喰う。女の子らしい食べ方など、もうどうでもいい一人暮らしの沙月は、ソフトドリンクで口の中の乾いた食料を胃の中へと流し込む。
 やがて腹は膨れるが、長く続いた不定期な飢餓状態に置かれてた沙月の臓腑は強制的補給物資を受け付けない。やがて流し場に駆け込んで、胃の腑に押し込まれたすべてを吐いてしまう。吐き出してしまう苦しみに、沙月は生きているということを改めて実感する。吐いて苦しんでいる間には、過去動画が再生されなかったことをふと気づく。肉体的な苦痛から涙が沙月の目に浮かぶが、この涙は苦くはない。毒のない涙。吐き出してしまえない苦しい思いは、いつの日か癌細胞化して移転して全身をむしばんでゆく。心から生じる死に至る病が失恋ならば、死んでゆく心を蘇らせるものもまた恋なのか。
 冷蔵庫から取りだした六甲のおいしい水をコップに注いで飲む。口元からこぼれおちるミネラルウォーターは涙ではない。また食べる。冷蔵庫の奥に個別にされた小さなバームクーヘンを見つける。プラスチックの袋を割いて、命の糧を体内に取り込む。

 母が掛けてくれた毛布。母は詳細を語ることなかったが、沙月が幼い頃に母が大きな恋をしたことを、沙月は覚えている。小さな沙月を抱きながら、よく泣いていた、まだ若くて美しかった母。
 …人魚姫が足を踏みしめるごとに、刃物で突き刺されたような痛みに苛まれるように、その痛みから我が身を守ろうとして心が鉛となる。相手に愛されなくなって会えなくなって、鉛の心が重くのしかかる。忘れようとして何か別のことに必死になろうとする。忘れるためだけに仕事に没頭する。失ってしまった恋は消えていまわない。時と共にどんどんかつてそんな恋があったという想いが風化して行く。風化するには長い長い間、風と雨に吹かれて濡れて初めて形を失ってゆく。一年、二年、そして三年。きっとそれくらいで失った恋は、愛は、鉛の心は錆びて砕けてしまう。でも鉛に包まれていた心は毒された鉛中毒の後遺症を死ぬまで抱えて生きてゆく。痛みは消えても、痛みがそこにあったという事実を人は忘れない。
 母は自分で選んだ恋のために家庭を壊して、そして結局恋した相手に捨てられて、孤独になった。死んだ人みたいになって笑いを忘れた。
それでも母は死を選ぶことなく生きていた。そしてまだ生きている。
 生きるってそんなことなのかって私は思う。どんなに泣いても必ず明日がめぐって来るし、昨日という過去があったことは忘れられないでいる。
時の波に打たれながら、いつしか角を削られて小さく丸くなってゆく石のようにはなりたくない。
 川辺の岸には丸くなったたくさんの石がある。山から崩れ落ちた鋭角を持った大きな石は、砕けて、川の流れに落ち込んで、水流に打たれ角を削られて丸くなる。川辺の岸に打ち捨てられている、平べったくてすべすべしている丸っこい石には、語られることのないたくさんの記憶が込められている。でもそんな風には生きていたくない。わたしは流されて小さくなってゆく小石にはまだなりたくない。

<小説つづき>

  • その一:<1><2><3><4>

  • その三:<8><9><10><11>

  • その四:<12><13><14><15><16>


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。