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英国で愛されたクラシック音楽(1): インドへの憧れ

現在「乙嫁語り」を連載中の漫画家、森薫の前作である「エマ」全10巻を同作のアニメとの違いを楽しむために、十年ぶりくらいに読み返しました。

「エマ」は、2002年から2006年まで本編が書かれて、その後スピンオフ的な脇役の物語を短編で描き続けて、2008年に完結しました。

スピンオフがあることからも知れるように、この作品は主人公エマとウィリアムの物語というよりも、彼らを取り巻くヴィクトリア時代に生きた人々を描いた群像劇。

第八巻から第十巻は本編の筋には全く関係のないオペラ歌手の人生のある場面を描くなど、この作品を読むとヴィクトリア時代の風俗を好きになること間違いなしですね。

作者森さんはメイド服などに大変な興味を持たれて、それが本作執筆の動機であったりもしたそうですが、産業革命の力で変わりゆく世界などが多面的に描写されています。

わたしはファッションよりも料理により関心がありますが、いずれにせよ、長かったヴィクトリア女王 (在位1837-1901年)が統治した時代に親しむに最良の書と言えるでしょう。

小説のシャーロックホームズを読んでも視覚的にはヴィクトリア時代を知ることはできません。

あの時代を学ぶには二次創作の映画などから学ぶ必要があります。漫画からヴィクトリア朝の文化に入ってゆくのもいいですね。

ヴィクトリア時代とは世界中に築き上げた植民地支配によって栄えた大英帝国最盛期。二十世紀に入ると、植民地支配による矛盾が弾けて、黄昏のエドワード時代が始まります。その後は世界大戦勃発により大英帝国は黄昏てゆくのです。

マハラジャとは

漫画「エマ」は十九世紀終わりの英国の風俗を学ぶに最高の資料と言えますが、大英帝国の負の面を語り切ってはいません。植民地における搾取の話は皆無ですが、その代わりに植民地インドの支配者であるマハラジャの王子が物語でウィリアムの助言者ともいうべき立ち回りで登場します。

インドでは侵略者イギリスとの大乱において、イギリスに協力した地方領主は自治権を認められ、藩王国(princely state)を統治していたのがマハラジャ。
本作のハキムはそんな藩王国の第二王子。最高の権力と財力を持ち、
英国内でも同盟国ということで貴族と同じ地位と権限を与えられていたのでした。

インドのムガール帝国は大英帝国(東インド会社)に乗っ取られたのですが、インドに数多くあった地方封建領主(マハラジャ) はカースト制などの社会構造ゆえに力を持ち続けていていました。

マハラジャとはMaga+Rajaで偉大な王という意味。インドは大きな国ですので、地方領主は絶対専制君主のように強大で、大英帝国は既存の支配者である彼らと手を取り合って植民地インドを支配しようというスタンスを保ち続けていたために、漫画「エマ」にハキムが、主人公ウィリアムの親友として登場するという設定も、もっともらしいものです。

英国人にとってはインドは大英帝国に無尽の富をもたらしてくれた夢の国のようなもので、十九世紀の英国文学には植民地インドの話がしばしば現れます。

英国生まれでアメリカに移住したフランシス・ホジソン・バーネットの「小公女セーラ」や「秘密の花園」ではインドは大変に重要な役柄を演じますし、ヴィクトリア朝を代表する文学者バーナード・ショウの「ピグマリオン」(のちにミュージカル「マイフェアレディ」となる)においてもインド英語が問題とされ、ノーベル賞作家キプリング(「ジャングルブック」の作者)もまたインドと関連が深い。コナンドイルの「シャーロックホームズ」シリーズの名脇役ワトソン医師もまたアフガニスタンのカブールにいたこともあり、植民地こそは大英帝国の希望と生命線だったのです。

漫画「エマ」にはクラシック音楽が何度も登場しますが、エマの再就職先はドイツ人実業家という設定で、そこでインドを夢の土地のように歌った歌をドイツ人夫婦が歌います。

歌曲「歌の翼に」

メンデルスゾーンの有名な歌曲「歌の翼に」です。

ドイツ人のメンデルスゾーンは英国人に大変に愛された作曲家。

英国は、十七世紀のクロムウェルによる英国内乱に伴う文化大革命によって、英国中から世俗音楽が一掃され、音楽教育も極度に制限されるという事態を引き起こしたために、エリザベス女王時代に栄えた音楽教育の伝統が失われて、それ以来、音楽家不毛の土地と呼ばれるようになります。

しかしながら、世界に先駆けて産業革命を成功させ、植民地支配によって世界の工場となっていたイギリスは強い経済力をもとに自国で作曲家を育てるよりも、外国の大作曲家を招聘することで世界一の音楽消費国となりました。

招かれた有名作曲家にはハイドンやメンデルスゾーン、ショパンなども含まれ、一攫千金を求めてモーツァルト父子やヴァイオリンのパガニーニなども訪れました。

メンデルスゾーンは六度も英国を訪れたほど英国を愛しました。

メンデルスゾーンのピアノ小品集や歌曲集は、ヴィクトリア時代の貴族の子女に大変に愛された音楽でした。代表作の件付随音楽もシェイクスピアの「夏の夜の夢」のためのものでもありました。

メンデルスゾーンの最も有名な歌曲は上記の「歌の翼に」。音楽の好きな方はこと美しいメロディに親しまれていても、歌詞の方はあまり知られていないのでは。

「エマ」第九巻より

歌詞にはインドのガンジス川が登場します。

実際のインドの、沐浴する人や洗濯女、神聖な牛たちなど、雑多なガンジス川を見知っている詩人ならば、こういう詩を書くとは思えないのですが、ここで描かれているガンジス川とは、夢の国の象徴。

実際に日本語訳ではガンジス川という固有名詞を避けて、夢の国として歌われたりもしています。下の動画の日本語歌詞は秀逸です。

このメロディに出会ったのは高校生の頃でした。それまで知らなかったことを音楽の先生に笑われたりもしましたが、このフルート変奏曲はそれ以来、わたしの愛奏曲です。

メンデルスゾーン屈指の名旋律ゆえにいろんな楽器で奏でられます。ヴァイオリンのハイフェッツ、ピアノのリストによる名編曲は、この曲の編曲における最高の例ですね。

夢のガンジス川。

二十一世紀のインターネットの普及した現代では、ガンジス川を夢の世界とは謳う人はいないかもしれません。

ですが、憧れ心は芸術創作の源泉です。十九世紀のイギリス人やドイツ人の夢想していた、憧れの土地インディア。

夕暮れのガンジス河畔
from Unsplash

十九世紀のヴィクトリア朝の人々は苦しい生活と薄汚れた空気の都会生活で、こういうロマンティックな情景に空想を巡らしていたはずです。欠乏こそが憧憬を生み出すもの。

「エマ」を通じてヴィクトリア時代の風物を思いながら、あの苦しい時代だからこそ、ロマンティックな音楽を人々は渇望していたのだなとわたしは思います。

音楽は歌の翼に乗って遠くに聴き手を連れてゆくのです。ここではないどこかに。

旋律メロディとは歌の翼。

これ以上に詩的に美しいメロディの定義をわたしは知りません。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。