ピアノのバッハ5: オルガン曲のピアノへの互換性
わたしはピアノを弾きますが、これまであまりなじみのなかった、オルガン音楽に非常にこのところ興味津々です。
クラシック音楽のなかでも、いままで最も聞いてこなかったジャンルがオルガンのための音楽。
わたしが大好きなバッハは当代随一のオルガニストであり、バッハのオルガン音楽の遺産の価値は計り知れません。
そういう偉大な作品をいままで敬遠してきたのでしたが、それだけにこれからまだ知らない作品群をまだ知らぬ新しい作品として接することはできることは喜ばしいです。
さて、前回はバッハのオルガン音楽の代表作であるトリオソナタの第4番のピアノ版を紹介しました。
バッハの鍵盤音楽のなかでも、ピアノとは全く別の原理から発声される楽器であるチェンバロという楽器の音楽を無理やりロマンチックな楽器であるピアノで弾こうとするから、ピアノのバッハには限界があるのです。
しかしながら伸びる音主体のオルガン音楽ならばピアノのペダルを踏んだ音に変換可能なのかもしれません。
声楽曲の編曲もペダルを踏んだ残響たっぷりのピアノの音色が似合います。伸びすぎるとピアノではペダルを踏んでも減退する響きがピアノらしさなので伸ばしきれない場合もありますが。
オルガンの伸びる音とピアノのペダルを踏んだ音は似通っているという想いからバッハのオルガン曲を聴くと、今までなじみがなかったオルガン音楽に対して急に親近感を覚えるのです。
違和感を感じないのですね。ピアノ学習者の定番であるインベンションや平均率曲集のピアノ版よりもずっとしっくりくる。
今回聴いて個人的に特に気に入ったのはトリオ・ソナタでしたが、第二番ハ短調はとくに有名です。第一楽章冒頭のフレーズは耳に残る名旋律で素敵です。
トリオ・ソナタ・ハ短調
トリオ=三重ソナタですので、他の旋律楽器三つでも演奏可能。こういう互換性がバッハの音楽の特殊性。
バロック音楽全体に言えることかもしれませんが、音楽が楽器を選ばないというのは本当に作曲家バッハの音楽の稀有な特性なのです。
ヘンデルの音楽も同じように、オルガン協奏曲がハープ協奏曲になったり、リコーダーソナタがオルガン協奏曲になったりということもあります。確かに楽器を選ばないことはバロック音楽の特性。でもヘンデルやバッハはやはり特別なのだと素晴らしい編曲版を聴けば聴くほど思わずにはいられないのです。
パイプオルガンという楽器の特性。
ご存じかもしれませんが、パイプオルガンには音色を変えるスイッチのようなもの(ストップと呼ばれます)が備わっていて、突き出ているバーのようなスイッチを引くことでパイプオルガンのパイプが切り替わり、楽器の音色が変わるわけです。
パイプオルガンは鍵盤で演奏して音を鳴らしますが、楽器の原理は管(パイプ)に風を送って音を鳴らすというもので、本当は管楽器なのです。
その管の種類はオルガンの大きさによってそれぞれ異なりますが、フルートのような歌う音、ファンファーレを鳴らすトランペットのような音、チューバのように重厚で低い音など、様々な音を一つの楽器が鳴らすことができるというもの。
まさにヘンデルやモーツァルトがそう呼んだように、楽器の王様、独りオーケストラ」ともいえるようなものなのです。
ですので、オルガンの多彩な音をほかの楽器に置き換えて演奏してみるということはごく自然なこと。
パイプオルガンの音を複数の楽器で再現するという試みを西洋音楽は何百年と続けてきたともいえます。
クラシックのオーケストラ音楽の究極形ともいえるヴァーグナーやブルックナーの三巻編成や四巻編成の巨大なオーケストラ音楽は逆にパイプオルガン音楽の模倣ともいえるものでしょう。
少なくとも、生粋のオルガニストだったオーストリアの交響曲作家アントン・ブルックナーは彼の巨大な交響曲でオルガンの音を再現しようとして同工異曲のスタイルの交響曲を生涯をかけて書き続けたのでした。
ピアノではなく、オーケストラで弾かれるべきバッハの代表作
バッハのオルガン音楽の魅力は多彩な音色。
だとすれば単一な音質しか奏でられないピアノよりもオーケストラで奏でられるべきだとも言えます。
そう考えたのはディズニー映画「ファンタジア」でも有名なアメリカの大指揮者レオポルト・ストコフスキーでした。
この映画を通じて、バッハの青年時代の大傑作「トッカータとフーガ・ニ短調」は世界中に知られるようになり、世界で最も広く知られたバッハ音楽の代表となりました。
余談ですが、1941年の「ファンタジア」はアメリカと日本の間の太平洋戦争中に制作された映画でした。
ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍をフィリピンから奪い取った日本海軍はフィリピンの米軍基地に残されていた映画「ファンタジア」のフィルムを見て、そのあまりの美麗さに、このように精巧なアニメ映画を作り出してしまうアメリカ文明の底力を否応なく見せつけられて、アメリカには勝てないと海軍将校たちは思わざるを得なかったとか。
海軍将校たちが目の当たりにした映像がストコフスキーやミッキーが登場するファンタジアでした。英語では無理やりカタカナで書いてファンティジア Fantasia。
この有名曲、原曲はもちろんオルガン音楽。あまりに外面的でバッハの真作ではないという説もあるのですが。
いずれにせよ、オルガン音楽がオーケストラの音を求めている、またはオーケストラの音がオルガンの模倣ならば、そのままオーケストラで演奏してしまえるはずだしてと思ったのがストコフスキーでした。
ですので、ブゾーニ編曲によるピアノ版でも広く知られているこの曲、ブゾーニによるロマンチックな編曲はそれなりに素晴らしいのですが、わたしとしてはわざわざロマンティックに衣替えするならば、オーケストラ版の方が良いとどうしても思ってしまうのです。
モダンピアノのペダルの機能を思いきり生かした名編曲なのですが、ポツポツ切るピアノらしいスタカートがバッハらしくありません。
ピアノという楽器の限界を感じさせる編曲ですので、わたしはこの曲はピアノでは全く弾きません。
あまりにも非バッハ的な音楽にわたしの耳には思えるのです。
同じオルガン曲でもコラールという声楽を模した曲ならば、ピアノの澄んだ音色が本当にお似合いです。オルガン小曲集の中のそういうコラールは演奏中にストップを切り替えて音色を変えたりすることはないので、ピアノの清楚さがぴったりなのですね。
「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」~Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ:BWV639
原曲に勝るとも劣らない、ピアノで奏でられる最も美しいバッハのひとつはコラールです。ですが、この有名なコラール、やはりピアノ版だとスタッカートな響きに違和感を感じます。ピアノ版と原曲を聴き比べてみてください。
「いまぞともに喜べ、愛しきキリストの徒よ」~Nun freut euch, lieben Christen gmein:BWV 734
パッサカリア・ハ短調 BWV582
このように、バッハのオルガン音楽は違った音色を奏でるたくさんの管を持つパイプオルガンという楽器のために、音色が多彩であればあるほど、オーケストラ音楽を思い起こさせます。
オーケストラ音楽を想起させる響きだからこそ、オーケストラ音楽に編曲したストコフスキーの先見の明は素晴らしい。
しかしバッハの音楽はバッハの時代の楽器で演奏されるべきというイデオロギーのためにストコフスキー編曲版は異端であるとゲテモノ扱いされていた歴史が二十世紀にはありましたが、こうしてインターネットでありとあらゆる音源が聞かれるようになって、今後改めて再評価されることでしょう。
少なくとも、ストコフスキーの編曲したパイプオルガン由来のバッハの名作はピアノで演奏されるよりも、オーケストラ音楽として奏でられる方がバッハらしさを感じさせてくれます。
YouTubeになってストコフスキーの指揮姿の貴重な映像も拝めるようになりました。
パッサカリア、本当にすごいです。
原曲のオルガン演奏はコンピュータやタブレットを通すと音がくぐもってしまい、ほぼ絶対に再現不可能な音なので、オーケストラとして聞く方がバッハの音楽を堪能できます。
新しい録音映像ではこちらが秀逸です。
原曲は良いパイプオルガンのあるホールや教会堂などで訊かれるのが一番です。
でも良い再生機をお持ちの方はこちらの原曲もぞうぞ。これもまた、世紀のバッハ指揮者カール・リヒターによる世紀の名演です。
助手が後ろにいて、鍵盤演奏で忙しい演奏者リヒターの代わりに助手がスイッチを切り替えるのを見ることをできるのが素晴らしい。
こういう大規模なパイプ・オルガン音楽は独りでは演奏できないものなのです。まさにオーケストラ的です。
複数の鍵盤がありますが、そのどれも違った音を奏でています。これをピアノで再現することは不可能。オルガンに比べるとピアノは全くモノトーンと言わざるを得ない。
家庭用オルガン
日本ではヤマハが発明したエレクトーンという楽器がかつて大流行しましたが、エレクトーンとはヤマハの商標で、楽器は電子オルガンそのものです。
ピアノとは違う魅力がある家庭用電子オルガン。
バッハのオルガン音楽が好きならば、自宅に電子オルガンがあるととても素敵ですね。
わたしはいつしかエレクトーンをピアノよりも劣る楽器のような印象を抱き続けてきましたが、ピアノとオルガンは違う楽器。
日本の古い小学校にあったような足踏みオルガンも、ピアノよりも劣るものではないといまさらながら認識を改めました。
出てくる音が違うので、それぞれの楽器にふさわしい音楽があるのです。
オルガンの調べは管楽器の音色。
ピアノは原理上、どうしても打楽器。ダンパーペダルを踏めばオルガンっぽい響きを作り出すことができるわけですが、やはりピアノは叩く楽器。
オルガンと違って音の強弱を表現できますが、そういう美学はオルガン音楽の世界には存在しない。
ピアノ曲をオルガンで弾くと、とても奇妙な音楽に響くのは自明の理なのですね。
わたしはオルガン曲をピアノで弾くことは一部のコラールを除いて今後は慎みたいと思っています。
というわけで最後にわたしが面白いと思った家庭用オルガン(エレクトーン)でのバッハ。
名作小フーガ・ト短調です。
電子オルガンではオルガン以外の音も出せて、まさに独りオーケストラもできてしまうのですが、わたしはクラシック音楽のオルガン音楽が好きなので、エレクトーンよりもバイカウント社製の本格的家庭用電子パイプオルガンが欲しい。
250万円以上もするので家庭用にしてはあまりに高価、グランドピアノと同じような価格なのですが。
楽器は多くの人には趣味でしかないので、こんなにも本格的なものはほとんどの方は必要なのですが、美しい音を鳴らしてくれる楽器のある人生は素晴らしい。
どんな楽器が好きなのかは人それぞれ。
でもオルガンという楽器をより知ることで、どんな楽器でも奏でることのできるバッハの遺した音楽の奥深さに少しばかり触れることができたような気がします。
おまけ
バッハには関係ないのですが、ディズニーのファンタジアの言えばやはりこれでしょう。十
九世紀のフランスの作曲家ポール・デュカスの傑作交響詩「魔法使いの弟子」。ミッキー・マウスによる名演。フィリピンの日本海軍将校たちを唸らせた世紀の名演!
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