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【創作大賞応募作】 ロックダウン・ラヴ (Lockdown Love) 《その三》

<8>孤島へ To the Is-Land

 再生された動画の数だけ、沙月の体はむしばまれてゆく。
 食べることで全てを忘れようとする。ひたすら食べ続ける。飢えて衰えた肉体に与えられた慈雨は、沙月の乾いた躰を潤してゆく。19歳の少女らしい丸みを沙月は取り戻すが、余剰の脂が沙月の相貌を醜くしたと沙月は悲しみを覚えずにはいられなかった。

 世界的伝染病の蔓延は夏休みが終わっても止むことはなかった。世界は重たい閉塞感を抱えたまま、たくさんの時が流れていった。テレビの映像の遠いヨーロッパやアメリカの伝染病の死者を葬る光景が時々思い出されて仕方がない。
 オンラインの授業が再開される。カメラはいまでも隠したままだが、どうしても顔見せしないと単位のもらえないある授業で顔見せした。同じ講義をとっていたクラスメートたちの「丸くなってかわいくなったやん」と言う言葉にはどこか本音の羨望が込められていたと沙月は思いたい。沙月は少しばかり嬉しくなる。
 沙月のロックダウンの段階は少しばかり引き下げられて、時々日葵とチャットする。定期的に充電されるようになったスマホは再び少しばかり外界からの騒音を沙月の世界にも届けてくれるようになる。
 英文科の森準教授の授業が再開するが、いるべきはずの香坂がいない。どうしたのかと問い質したくても、オンライン授業中の森準教授に聞くわけにもゆかない。チャットして日葵にどうしたのかと訝るが、日葵が香坂に送ったメッセージにも香坂は返事をしないと伝えてくる。
 香坂までもロックダウンなのか。
 わたしのせい?
 思い上がりかなと、ひとり寂しげに空を見上げる。
 いつから閉じこもっているのだろうか。かつて悲しみの中でもらした吐息から生まれた白い雲は、いまでは大きな夏の終わりの入道雲へと姿を変えている。竜の巣のような巨大な雲は沙月と香坂の大きな未来を包み込んでいて中に隠されている空の城か嵐の源の正体を表そうとはしない。

 11時から森先生の授業。沙月はタブレットを広げてアクセスする。
イギリスの詩から始まった、この英詩の講座の二年目で、いまでは世界中の英詩が取り上げられている。南アフリカ、オーストラリアやニュージーランドやナイジェリアの聞いたことのない詩人たちの名前が毎週取り上げられる。
 今日はジャネット・フレームという女性作家の短い詩。彼女の小説を読んでみたいと思っている。自伝三部作の第一作目のタイトルは「To the Is-Land」。「孤島へ」へという平凡な訳は誰にだって思いつくが、IsとLandはハイフンで繋がれていて、Isとは英語の一人称代名詞の複数形であるというよりも所有格のSをもつ「わたし」。No one is an island がこだまする。「わたしの土地へ」という言葉、大海の中の孤島へとつながっている。
 リモートでの授業が始まる。授業の開始には点呼をとるのが、この律儀な先生の決まりだが、香坂は今日も姿を現さない。このままではこの英詩の授業の単位を落としてしまう。謎の伝染病にでも罹患して、パソコンにも触れないどこか、遠い病院にでもロックダウンされていない限り。森準教授はジャネット・フレームの処女作について特にふれることもなく、彼女の書く短い言葉で書かれた詩句の意味を解説する。
 そうしていつものように時は流れてゆく。先生のRを引き伸ばさない英国仕込みの自慢の英語がタブレットの高性能サウンドシステムが沙月の狭い部屋の中に朗詠されてゆく。うねるような英詩のリズムが眠気を誘う。
 突然、スマホのバイブレーションがうたた寝する沙月を現実世界へと引き戻す。画面には、沙月と香坂の数少ないツーショットの画像が浮かび上がる。沙月の胸の鼓動は1.5倍速する。受信ボタンを押す。

<9>違う! No Way!

「大川、逢いたいんだ。いますぐに。
いつか一緒にいった万博公園のあの場所に来てくれないか。どうしてもいま伝えたいことがあるんだ」
 バク打つ沙月の心臓は2倍速!今もなお、夢とうつつの間(はざま)を彷徨う思いの沙月、
「行く、行きます!
えーと、今から、すぐに。
でも、メイクしてから、
モノレール乗って、
40秒じゃなくて40分!」
「 …分かった。ここでずっと待ってるから… 」
 スマホを切る。沙月はおもむろに立ち上がる。だが、今はまだ授業中だ。でも構わない、いやみんなに伝えたい。香坂康介が逢いたいんだと呼んでいるんだと。
 タブレット画面には森教授ではなく、クラスメートの一人が何か名指しで質問を受けて、どうにも返答できずにしどろもどろしているが、沙月はカメラをオンにして「森先生!」と、息せき切ったような声で、返答できない彼を押しのけていきなり発言する。クラス中のみんなが目を見はり、カメラオンとなった沙月を見て一様に驚く。

「オオー、沙月やんか」
「お前大川か、なんか随分見ないうちにまるくなったなあ(笑)」
「久しぶりー、元気してたあ」
「😆😆😆😆😆」
「❤️❤️❤️」
「👍」

 ギャラリー画面には眉をしかめた森先生ほか、11ほどの長方形、ほとんどのカメラが一斉にオンになる。オンラインは実際の教室内で発言するよりもなんだか喋りやすい。
 両手で持ち上げたタブレットに向かって、「あのー、森先生」ともう一度繰り返し、沙月はクラスの全員に語りかける。
「香坂くんから連絡がありました。わたしに逢いたいって、
だからわたし、授業中ですが、失礼します」
 マイクまでも一斉にオンになる。退屈な授業からすべてのクラスメートの眠気を吹き飛ばす驚天動地の大ニュース。
「やるやん、大川、やったー」
「すごいじゃん、振られたってきいてたけど」
「振られた相手に逢いたいって言わせるって… マジ凄い」
「沙月、行っといで」
「がんばれー」
 仏頂面の森先生がはしゃぐ生徒たちをおとなしくさせる。
「あのなあ、大川、授業中なんやぞ、全然出席せえへん香坂どうなってんのか、俺も気になるけどなあ、あと20分待てへんか。半分授業出てへんと、出席扱いにはせえへんで」
 沙月は先生の言葉に途惑うが、手に持ったタブレットの画面をじっと見つめて言い放つ。
 「失恋は、恋愛は不要不急じゃありません…愛は人生の一大事で、重要緊急のハプニングです…」
 沙月は精一杯の力を込めて叫ぶ
「違うんです… 不要不急じゃない!
愛は緊急で、
待ってくれなくて、
自己チューで、
ジェラシーで、
わたしは、恋愛なしには生きられない!
生きている意味がない!

一瞬の沈黙、沙月を見つめる、スクリーンの向こうのクラスメートたちがはじけ出す。
WOW!
YEAHHHHH!
YAY! ブラボー!キャー!
「いけー、大川!」
「そうや、恋愛は不要不急なんかやない」
「沙月、GO!」
 一瞬呆れていた森準教授。少しばかり微笑んで、大きく息を吸い込んで、コンピュータの画面いっぱいに叫ぶ!
「行ってこい、大川ぁ、出席扱いや!… 」
WOW!
YEAHHHHH!
YAY!
GO!GO!GO!Satsuki!

<10>ひずむ時空 Distorted Space-time

 沙月はタブレットをベッドの上に放り投げる。リモート授業の回線も切らずにそのまま走り出す。部屋の戸を開けると洗面所に駆けて行き、少しばかり髪を整えて超簡単メイクして、外出用のコートを速攻で羽織り、ほとんど着の身着のままでかけてゆく。

「恋愛は不要不急ではない人生の一大事、人生最大の重要案件」
 この言葉を呪文のように何度もつぶやきながら、沙月はモノレールに飛び乗って、万博記念公園駅を目指す。ちょうどいいタイミングで列車は待っている。時は満ちた。すべては沙月のためにある。モノレールはすいすいと空を駆け抜けてゆく。窓の外を見上げると青くて大きな空が見える。

 小さな旅。初めてのデートをしたところへ。駅から降りて公園の森を中を抜けて… 心の動画が蘇る。
 再生される画面。ほとんど一年前。デートするために何度もモノレールはこの路線を走っていた。初めてのデートは夏休みの初めの頃。いまは今日の夏の終わりだけれども、やはり同じように暑かったけれども、真夏の太陽はなかった。夏の真夏の太陽が輝く前に恋が始まり、そして一年の時が流れたのだけれども、夏はまだ終わってはいない。長い長い冬のロックダウンに終止符を打つのは今日だけだ。2019年の夏の初めから始まった途切れてしまった恋。2021年の夏の終わりの今、また止まっていた時間が動き出す。沙月の中で二つの夏の時空がつながり絡まり合う。
 秋が来て、冬が全てを沈黙させたけれども、私には全然、春は巡ってはこなかった。わたしが世界を閉ざすと、世界全体をもロックダウンした。
 時空がひずんでゆく。あの二人が出会った夏、いままた、ここに戻ってくる。失われた春が、最初の夏とこの不確かなロックダウンの時代の夏を繋ぐ。時空のゆがみを繋ぐのはこのモノレール。モノレールで彼に逢いに行く。古い記憶をこれから書き換える。上書きするのはわたし、沙月だ!
 はじめて手を繋いだあの石畳の道。不器用な恋愛。見つめると照れてばかりいた。森の木々は私たちを祝福してくれていて、全てが輝いて見えていた、あの小径、あの素晴らしい光景、いままでなんども再生された動画の中で最も美しかった思い出。裏書きして失くしてしまっていいものなのだろうか。沙月の胸の想いは揺れて、再生画面は次第にかすれて消えてゆく。
 駅だ。改札口を抜けて、ただ人の波の中を抜けて、樹木の影を踏み分けて、駆けて、駆けて、駆けて抜けてゆく。

「どうしても聞いておきたかったことがあるの」と切り出した。
「わたしのことを好き」としつこく逢うたびごとに恋人に聞いて相手をうんざりさせる女性がたくさんいることを知っている。
でも、あの頃の沙月には、どうしても聞けなかった一言、どうしても訊いてみたかった。

「わたしのこと、好きでしたか?」

 本当にばかげた質問。
 でも「愛される」ことこそが生きている意味なのだと、たった20年の人生で沙月が見つけた真理はそれだった。愛して愛されて、愛されなくなるとまた別の愛を探して、いつまでも愛のために生きてゆく。どうして男はそうじゃないの。
 生きるって、ただ勉強して、社会的に認められて、経済的に自立して、
大人になるばかりじゃない。
 「愛して」そして「愛されたかった」。
 失恋の理由なんていくらでもある。でも彼が自分をはじめから、そもそも愛しても恋しても、私のことを大切にも思ってもいなかったのだとしたら、
失うものなんて最初から何もなかった。ただ恋する思いをわたしが味わいたかっただけだ。彼はそれに親切に付き合ってくれていただけ。彼は香坂くんでなくとも、森先生でもよかったわけだ。でもわたしは香坂君が好きなつもりだった。そしてもっともっと好きになりたかった。でもあなたがわたしを全然好きになってくれていなかったのならば、まったくわたしの一人芝居だったのかもしれない。
 海岸に打ち捨てられた小石のように、貝殻のように、悲しみの波に打たれて浸食されて、削られて、愛はどんどん小さくなってゆくものだと、この一年の間、ずっと思っていた。打ち寄せる波が朝であり、退く波が夜であり、朝と夜が交互に永遠に思えるほどに繰り返された、わたしのロックダウン。
 最後に残ったのは、わたしのから騒ぎだけだったの?わたしが確かめたいのは、あの人の心。

<11>一時停止しただけだ Just Paused

 香坂は大地を敷き詰めている若い落葉を見る。英文学科の教室で自分をずっと後ろの方から半年も見つめ続けていた沙月。香坂は自分に注がれる熱い視線の意味を知っていた。
 見つめられ続けた一学期が終わろうとしていた頃、沙月のコンスタントな無言の想いにようやく応えたのが、夏休み前の最後の授業だった。
そして大学一年生の夏はコンサート設営の夜のバイトをしながら、ジェイムス・ジョイスを読みながら、レポートとかを書いていた。スティーブン・ディーダラス。名前は太陽まで飛翔して海に堕ちたイカロスの父親のダイダロスを踏まえている。香坂は空を真っすぐに飛んでゆくイカロスを地上から見つめているダイダロスとはなんであるのかと物語の中に隠された神話の意味を探ろうとしたが、複雑なジョイスの言葉の渦の中でわけがわからなくなってやめた。世の中わからないことだらけだ。
 沙月とメッセージを交わすようになって沙月が自分自身の生活の一部となった。時々会って映画を見たり読んだ本のことを話した。沙月は、井坂幸太郎とか、瀬戸内寂聴の「源氏物語」とか、三浦しおんとかを読んでいた。外国の本にしか興味のない香坂には沙月は自分の知らない世界を開く窓だった。
 でも沙月の想いはどこか押し付けられたものだったけれども、逢うたびに自分のために笑ってくれる沙月を可愛いと思ったし、自分の知らなかった感情を沙月は教えてくれた。朗らかに笑い毎日が楽しくて仕方がないような沙月が眩しくて仕方がなかった。
 余りにも眩しすぎる沙月を触れてはならない太陽のようにさえ思えて、
踏みつけてはいけない野に咲いている小さな白い花のようにも思えた。時々語ってくれた、一緒に住んでいる母親との確執、離れて暮らす聡明な妹のこと。
 だんだん見えてくる自分の知らなかった世界を前にして、自分の前では、無理やり明るく振舞っている沙月の放つ光の影の深さを、次第に知った。
そして香坂は逃げたのだ。

 落とした視線をあげて、香坂は沙月を見る。
 閉じた質問には、YesかNoしか答えてはいけないのだろうか。Yesでもないし、Noでもない、はだめなのだろうか。Yesは、沙月を置いて逃げ出した自分を説明できない。Noならば、どうして沙月をまた呼び出したりしたんだ。「何か違うんだ」っていう言葉は戸惑いの言葉で、否定したわけじゃなかった。一時停止しただけだ。

<小説つづき>

  • その一:<1><2><3><4>

  • その二:<5><6><7>

  • その四:<12><13><14><15><16>


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