美しい夏の日の読書:「大いなる遺産」
久しぶりに読書を堪能しました。
速読しないで、文章を味わいながら、のんびりと読みました。
楽しい読書でした。
長編小説です。
南半球に暮らしているわたしには1月は夏休みなのですが、海辺での素晴らしい夏の読書になりました。
読んだのは、19世紀ヴィクトリア英国の大作家チャールズ・ディケンズの古典名作「大いなる遺産」。
ディケンズの最高傑作の一冊として、必ず上げられるこの作品を生涯初めて読んだのですが、心底から読書する醍醐味を味わえました。
Noteではこの名作への読書感想文、またはタグもほとんど見つからないので、ほとんど読まれていない隠れた名作なのかもしれません。
いまでは日本ではディケンズなど読まれないのでしょうか。
確かに原作は19世紀の個性的な英文で書かれているので、英語学習者の教材には選ばれないのですが、こんなに楽しい読書はなかなかないものです。
独特の文体になれると、作者の表現の面白さに笑みが浮かびます。
例えば、物語冒頭で逃亡犯と主人公は出会いますが、満身創痍の逃亡犯の風貌はこんなふうに表現される。
自称読書家のわたしはディケンズの名作をどちらかというとこれまで敬遠してきたのでしたが、これまで読んでこなかったことを後悔するよりも、まだこんな素晴らしい大作家を自分はまだ読んでいなかったのだ、これから当分読んで楽しめるのだ、というワクワクする思いでわたしは幸せです。
社会派ディケンズ
読んでこなかったのは、トルストイやドストエフスキーとは違って、ディケンズは思索的な小説を書く作家だとは伝えられてはいなかったため。
トルストイやドストエフスキー、さらにはモームなどの文豪らに愛読されて世界文学の大傑作として挙げられてきたディケンズの作品群なのですが、いま改めて読んでみると、英文学はドイツ文学やロシア文学のように、思索を綴るよりも、社会の中でいかに行動するかを書き綴る文学なのだなと納得。
英文学は階級社会をめぐる社会派文学であることが多いのです。
恐怖文学と呼ばれる、英文学の「ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」や「ジキルとハイド」にしても。
頭でっかちだった若いころのわたしが、社会派のディケンズを読むには人生経験が全く足りなかったので面白くなかったのだなと今ではわかるのでした。
社会の中の自分を鑑みる、それが英文学的。
ロシアやドイツは個人主義的、社会に対する自分よりも自分自身の存在がいかに生きるかを考える。
観念的なゲーテやトーマス・マンやトルストイやドストエフスキーを若い自分が読めても、いまの言葉でいえば自分から他人との距離を置いていた「ぼっち」だった自分には、実際に「誰かと一緒に生きた」という経験が絶対的に足りなかったので、社会的実践的な人生哲学溢れるディケンズは理解できなかったのでした。
いまは半世紀ほどの人生をようやく生きて、人並みの社会経験と人生体験を得た自分は、ディケンズを心から面白いと思えるのです。自分自身の大きな成長です。
ディケンズの英語、前述のように十九世紀の英語なので、独特の長ったらしい修飾語たっぷりのナラティヴはなかなか読みにくいのですが、馴れると本当に面白い。
大げさ極まりない誇張表現も愉快。
なんて表現がいたるところに発見できます。
「幽霊のように」なんて部分、普通はなくても文章は立派に書けますが、わざわざこんな余分な形容詞を付け足すことでディケンズ文体独特の面白みが生まれるのです。
日本語翻訳と英語原文を読み比べながら、読み進めたのでしたが、良い翻訳では日本語版でも物語の面白さや、ディケンズ節は100%堪能できるので、ぜひともディケンズを本で手に取って読んで見てください。
そのうえで何度も映画や舞台化されているディケンズの名作の二次作品に親しまれると二倍に楽しい。
ディケンズの魅力にひとつは、十九世紀ヴィクトリア英国の下層社会と上流社会の両面を我が目で見ているかのように、読書を通じてリアルに体験できることです。
映像化されると「ああこの場面はこうだったのか、こうにもなるのか」などと映画監督などの解釈をも楽しめます。
「大いなる遺産」の映画やドラマはたくさんあります。
2013年版では名女優ヘレナ・ボナム=カーターが原作とは大分違うハヴィシャム夫人(結婚していないのでミス・ハヴィシャムと訳されることが多いかもしれません)の姿を披露してくれます。
こういう二次解釈は賛否両論ですが、ほんとに面白い。
ヒューマニスト・ディケンズ
私が思うディケンズ最大の魅力とは、社会底辺にいる弱者への思いやりや友愛のような温かさ。
貧困階級出身のディケンズは、英国独特の階級差ある社会において、社会的地位や貧富において人間を判断することなく、富によって傲慢になる上流階級や、貧乏でも他人を思いやる心を持った人、また成りあがって誠実さを忘れる俗物などをしっかりと描き出しているのです。
人間を立派にするのは、富や名声や社会的地位や決闘ではなく、人間の心の在り方というヒューマニズムがディケンズ文学を際立たせる素晴らしさ。
超有名な中編小説「クリスマス・キャロル」(1843年出版)では、ケチで成金の卑しい心のスクルージがクリスマスの夜に三人の幽霊に出会って、自分のこれまでの人生を反省して改心する物語でした。
おとぎ話のような寓話的物語なのですが、どんな悪人さえも変わることができて、人は誰でも内に美しい心を持っている、とディケンズはいつだって語り続けていた。
社会の底辺を誰よりも知っていた下流社会出身のディケンズは、極悪人もまたきっかけがあれば善人になれると信じていたのです。
経済的に満たされていて人生に退屈している上流社会人たちの偽善と欺瞞についてもまた、徹底的に糾弾しています。
大衆作家ディケンズ
ディケンズは物語を面白くすることに精力を尽くした作家でした。
凝ったプロットを書くことに苦心したロシアの後輩ドストエフスキーが愛読したことも頷けるわけです。
英語圏では、大衆文学的だとされるディケンズは、二十世紀のモダニズム文学などを過大評価する英文学の大先生には軽視されますが、20世紀や21世紀の英語読者たちは一様にディケンズを「大好きな」作家としてあげてきたのでした。
でも芥川賞に対する直木賞みたいな区分は世界文学にはないのです。
ディケンズ文学の持つ大衆性の素晴らしさは150年を経てもなお、我々をいまもなお、魅了しているのです。
大衆的な人気は、深みがないという意味ではありません。
読み方次第なのです。純文学には乏しい社会的分析もまた魅力です。
ディケンズ晩年の大傑作
さて、ディケンズの「大いなる遺産」。
原題の英名は「Great Expectations」。
日本語の「遺産」とは、文字通り「遺された財産」。
将来受け継ぐべき財産は日本語では遺産としか表現できないので、この翻訳語にわたしは不満です。
Expectationsは、将来受け取ることのできるであろう幸運や大金という意味。
そこに日本語でいうところの「遺産」も無理やり含まれるわけです。
「残されるであろう財産」が Expectations。
普通の意味の「期待する、期待されるもの to be expected」というのが「Expectations」の原義。
将来受け取ることのできるであろう「大いなる幸運=巨額の富」がこの小説の題名。
だから事情により都合が悪くなれば、もらえないかもしれない。
遺産は寄贈者が他界して財産が遺ってから分配されるので、まずもらえると思うのです。だからこの翻訳語にわたしは不満なのです。
主人公ピップの精神的成長物語
主人公の名前はピップ。
Pip=Philipの短縮形。
十二使徒フェリペの名前の英語版。
英語圏で子供の名前を短くして呼ぶのは、日本語で「ちゃん付け」するのと似ています。
つまりピップは、「フィリップちゃん」または「ピプちゃん」という意味。
Phil フィルとも短縮されますが、ピップの方が子供っぽい名前ですね。
物語の終わりまで、子供の頃の彼を知る人たちは彼を「ピプちゃん」と呼ぶのですが、この呼び名は後半、非常に意味深くなる。
だれもが紳士の卵の彼を「ピプちゃん」とは呼べないからです。
ピップの親友は、ピップは呼び名としては軽すぎるので、彼のことを綽名で英国最大の作曲家にちなんで、ハンデル(ドイツ式ではヘンデル)と呼んだりする。
クラシック音楽大好きのわたしには楽しいエピソード!
わたしは与えられた名前は意味深いと思います。
さて、物語ですが、中学生くらいの鍛冶見習のピップはある時、思いがけずに、名前を告げない謎の後援者から、将来自分の遺産を受け継がせたいという申し出を法律家を通じて受けるのです。
その条件は、成人するまでに英国紳士にふさわしい教養を身に着けること、というのなのでした。
一夜にして孤児のピップは大金持ちになることになり、狭い田舎町の中では知らぬ者のいない時の人となります。
やがて貧しい村を離れて、上流階級のロンドンへと教養を付けるために向かうのですが、ここから二つの世界を行き来するピップの心の葛藤が始まります。
ミステリー仕立てのこの物語の後半、前半に張られていた伏線は驚くほどに見事に回収されて、何も知らないで読んだわたしはその物語展開の巧みさに舌を巻きました(ネタバレしません。是非ご自身で読んでみて、驚愕の展開を楽しまれてください。ウィキペディアであらすじを学んでから読んだりすると、もったいないですよ)。
まだこんな面白い物語をいままで知らないでいたわたしは幸福でした。
ピップを取り巻く個性的な登場人物たちの造形も独特で素晴らしい。
たくさんの「語り」がありますが、後半引用するように、それぞれの人物の言葉遣いは誰もが絶妙に特徴的なのです。
ディケンズの社会経験の深さと人間観察の深さには端倪すべからざるものがあります。
特に育ての親の未婚のハヴィシャム夫人に復讐の道具として育てられてたピップの初恋エステラ Estella の生き方には深く考えさせられました。
彼女は前回語った「モンスター」の少年少女のように、正しく人を愛することを意図的に学ばされることなく、育った少女です。
でも「モンスター」の養護施設の孤児とは異なり、自分には誰かを愛する心がないということを深く自覚しているのです。
「愛する」ことを全く知らないのではなく、自分は正しく愛されなかったので「愛することができない」ことを知っている。
でも「愛する」ことの素晴らしさは見聞きして知っている。
二人の子供の親であるわたしは、子供への情緒教育の重要さを心から痛感します。
具体的にどういうことなのかは作品を読んでご自身で理解されてください。
ピップの苦悩
他人を愛せない幸薄い少女を愛したピップは、努力もなしに、唐突に上流階級人として成り上がったがゆえに、心の深いところにある種の罪悪感を抱えているのです。
成り上がったがゆえに、かつていた庶民の世界の愛していた人たちとの間に生まれてしまった心の壁。
彼らから離れてゆく苦悩。
お金持ちになったにもかかわらず、過去を捨てて傍若無人にふるまわずに、彼らとの距離感に後ろめたさと寂しさを感じずにはいられないピップの誠実さは本当に愛すべきものです。
そして物語の最後、大団円とはならずに、深い余韻を漂わせたビター・スウィートな幕切れ(ネタバレしないので詳細はなしです)。
ディケンズは1861年にこんな物語を書いていたのでした。クリスマスキャロルから18年後の円熟した作品なのです。
ちなみに1860年代には
ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」が1862年に
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」が1965年に
レオ・トルストイの「戦争と平和」が1863年から1869年、
ドストエフスキーの「罪と罰」が1866年に
書かれるなど、19世紀の黄金時代なのでした。
それらの名作群の中でも、ディケンズの「大いなる遺産」は燦然と輝く大傑作なのだと、わたしは思います。
ここからは長編小説「大いなる遺産」の中の興味深かった文章の一部を引用してみます。わたしが個人的に感心して赤線を引いておいた部分です。
これらの言葉は小説の中の文脈の中でこそ、本当に輝くのですが、抜き出された言葉だけでも、ディケンズのヒューマニズムを味わうことができるはずです。
ぜひともディケンズを楽しんでいただきたいです。
「大いなる遺産」引用
ディケンズの名作「大いなる遺産」は、恋愛小説、社会小説、犯罪小説、そして、現代においても最高級とみなされるであろうサスペンス・ミステリー小説です(だからネタバレはだめです)。
こんな小説、聞いたこともないと言われる方はあらすじを読まないで、何も知らないまま、この小説をぜひ手に取ってみてください。
19世紀半ばの矛盾だらけのヴィクトリア英国社会へとタイムスリップしてエキサイティングな読書の時間を過ごすことができることは請け合いです!
英語版は著作権が存在しないので無償で提供されています(翻訳は訳者と出版社に著作権があります)。
英語に自信のある方はぜひ原書でどうぞ。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。