アニメになった児童文学から見えてくる世界<21>:階級社会の身分について
世界名作劇場「トラップ一家物語」は、オーストリア海軍の英雄だったゲオルグ・フォン・トラップ男爵の再婚をめぐる物語でした。
第一次大戦に敗北して海に面した一切の領土を失った旧オーストリア帝国。開戦の引き金になったユーゴスラビアとかオーストリア領でした。オーストリア海軍は無用の長物となり退役したトラップ海軍司令官は戦功ゆえに男爵位を授けられます。
先祖代々ではない貴族ですが、男爵家の子弟であるトラップ家の七人の子供たちは、貴族として恥ずかしくない教育を受け、貴族らしい振る舞いと身だしなみを身につけることが期待されました。
そこに修道院より遣わされた孤児だったマリア・クッチャラが子供たちの家庭教師になり、貴族らしくない伝統や格式から外れた自由な生活を教えて子供たちの心を掴むといった物語。
家政婦長のマチルダ夫人とマリアは絶えずぶつかり合い、厳しい規律と伝統を正しいと信じて押し付けるマチルダ夫人が視聴者には悪者に見えて仕方がないのですが、貴族と庶民は一線を画した世界に住むというのが階級社会の決まり。
貴族社会は伝統的価値観の維持によって支えられているのです。庶民とは違う生活スタイルを持っていることが貴族らしさの証。
別の世界名作劇場「小公子セディ」もまた、庶民として育てられていた伯爵家出身の父親を持つセドリックのお話。貴族の暮らしを嫌った父親は、故郷イギリスを離れてアメリカのニューヨークで暮らしていたのでした。
セドリックは父親の急逝の後、祖父の伯爵位を継ぐ後継者となり、立派な貴族としての教育を新たに受けることになりますが、セドリックのニューヨーク時代の親友であるホッブスさんは、庶民を蔑む貴族を心の底から嫌う人でした。
ホッブスさんの語る貴族こそが、庶民の嫌う貴族の典型。貴族としての特権を鼻にかけて庶民を見下す、傲慢横柄な輩というわけです。
しかしながら、物語の後半は血統主義ゆえに伯爵家は危機に陥ります。その伯爵家を救うことになるのは、セディが幼い頃から慕っていたホッブスおじさん。
伝統と血統と誇り高さの制約、そういう貴族的価値の否定面ばかりがアニメの世界では強調されます。
クラシック音楽という貴族文化の産物
世界名作劇場ではありませんが、漫画家森薫原作になる2005年のアニメ「エマ」(全24話)を観て、改めて階級社会社会とは何であるかを考えました。
「エマ」はアニメ作品として大変に優れた作品で、十九世紀のヴィクトリア時代における、庶民と貴族の世界の対比を視覚的に見ることのできるアニメでした。
原作に引用された秀逸なロッシーニのオペラやメンデルスゾーンの歌曲など、クラシック音楽の引用は割愛されて、その点は残念でしたが、アニメのBGMは上質なクラシック風仕立てでした。
筋金入りのクラシック音楽オタクのわたしも感心したほどに素晴らしい出来。ハープシコードやリコーダーといった古風な画期の調べはノスタルジーを誘い、まさにヴィクトリア時代を絵巻物にしたような味わいだったのです。
バロック音楽風BGMは郷愁を誘います。
イギリスはヨーロッパで最も音楽の発達に乏しい国でしたが、イギリス貴族社会が愛したパーセルやハンデルは、庶民が普段聞くような音楽ではありませんでした。
イギリス人がこよなく愛したドイツのメンデルスゾーンも、貴族の子女のために家庭用ピアノ音楽をたくさん書いて人気作曲家となったのです。
現在クラシック音楽として知られる音楽のほとんどは貴族のためのものでした。
そんな貴族の音楽に接することのできる我々は幸せです。
貴族たちの持っていた暇な時間は趣味の洗練に費やされて、多額のお金が音楽芸術の発展に費やされたがために、バロック音楽や古典主義音楽は生まれたのです。
世界音楽の中で十七世紀から十九世紀の音楽が特別な地位を占めているのは、理由なくしてではないのです。湯水の如くに音楽道楽に財産を投じた貴族たちがいてくれたからこそ、ヘンデルやベートーヴェンやハイドンが存在できたのです。
クラシック音楽の世界は貴族らしい秩序と形式主義の予定調和の世界。だからこそ、アニメ「エマ」にクラシック音楽的なBGMが使用されることで、貴族文化を連想させる上質な世界がアニメの中に現出するのです。
作曲家の梁邦彦さんのクラシック調のノスタルジックな音楽は、貴族的な、そして同時に特権を持たない儚い庶民たちのエマの世界を醸し出します。
エマという女性
「エマ」は大人のための「世界名作劇場」といった趣のアニメ。とても美しい。子供を対象にした世界名作劇場では観られない、人生の悲哀などが表情豊かに描かれていました。
わたしは子供の頃の主人公ウィリアムを厳しく教えた家庭教師のケリーさんの人生に心打たれました。
「エマ」の物語は、エマと呼ばれる、どちらかというと没個性な女性の紹介を描き出すというよりも、作品中でウィリアムの父が語る
という言葉そのままに、物語が描こうとしていたのは、十九世紀のイギリス貴族社会。
受け身で大人しい自己主張しないエマという女性は、あの時代のメイドと呼ばれた、上流階級の家庭に仕えた職業女性の典型、だから彼女の人間的個性は乏しく、同様にジェントリのウィリアム・ジョーンズも特に魅力的なキャラというわけでもない。ステレオタイプな主人公たちによる愛の戦いなのです。
こんな平凡な男のどこにエマをあそこまで思い詰める情熱があったのかと驚くほど。恋は男をここまで変えるのです。
いや、愛することでウィリアムは本当の自分を見つけたのでしょう。一生に一度はこんな本気の恋をしてみるものです。
「トラップ一家物語」のマリアのようなキャラの魅力で物語を引っ張る世界名作名作劇場とは、このキャラの造形という点が大いに異なるのです。
更には世界名作劇場ではあまり描かれない、大人の視点からの人の一生への深い考察がある。
主人公エマとウィリアムを出会わせたのも、ウィリアムの家庭教師をしていたケリー。
ケリー引退後に初めて恩師の自宅を訪れたウィリアムは、老いたケリーの身の回りの世話をしていたメイドのエマに出逢います。若くして夫をなくしてのちに、家庭教師として三十年を独りで生きた職業夫人のケリーさんの寂しい人生は憂いに満ちたものです。
彼女の中にヴィクトリア時代のある女性の典型を見ることができます。ケリーに拾われたエマも同様。でもエマはメイドながらも読み書きさえも教えてもらうのです。
貴族の社会と庶民の世界の対比
イギリスという階級社会。
現代においても、どのようなアクセントの英語を話すかで、人間を区別するような社会です。逆に言えば、「マイフェアレディ」のように、美しいキングスイングリッシュを学べば、成り上がり者のウィリアム・ジョーンズの父親のように貴族社会に受け入れられる素地はあるのです。
現代においても頑として階級社会制度の名残を社会の隅々にまで留めています。
トラップ大佐同様に、大きな社会貢献をすれば、いまだに英国政府はSirにDameという爵位を与えています。
人には二種類あるのでしょうか?
貴族と、そうではない人と。
現代風に言えば、親の潤沢な資産を受け継いで、最高の教育を受けて、実業家になったり、医師や法律家となる人と、そうでない人。
世襲政治家しか見当たらない日本の冴えない政治家たちの動向のニュースを聞くと、どこかそんなふうな思いにも捉われます。
二十一世紀の現代では、お金持ちとそうではない人たちとが、上流階級と下級階級という感じの断絶を作り出しています。所得が人間を分けていて、ますますそうした二分化は促進されています。
貧しいものが金持ちに嫁ぐと玉の輿と呼ばれるのは今に始まったことではありませんが、生まれながらに持つ人と、持たない人、この二種類の人間を人間社会は有史以来、再生産し続けているのです。
アニメ世界名作劇場でも、「私のあしながおしさん」の孤児のジュディがお金持ちの男性と最後に結ばれます。
「あしながおじさん」と呼ばれるジュディの支援者は、お金持ちの社交界を嫌うがゆえに、ジュディのような天真爛漫で自由な精神の女の子を愛するのですが、伝統という古い世代より受け継がれてゆく価値観からの自由は、社会的な軋轢を生み出さざるを得ない。貴族社会は利権社会なのですから。
家なき子レミは、赤ん坊の時に盗まれた貴族の娘でした。
名犬ラッシーでも、鉱山主の伯爵にラッシーは引き取られてしまいます。
世界名作劇場の大きなテーマの一つ。大金持ちとそうでない人たちの世界があるということ。
世界児童文学を原作に持つ世界名作劇場は、世界児童文学が子供たちに伝えようとしてきた作品のメッセージが込められた二次創作です。
わたしはしばしば、現在に忠実ではない、日本的な解釈による事実を歪めた改変に眉を顰め、極端な改悪に疑問符を投げかけてきましたが、世界名作劇場が子供たちに教えようとしていたのは、金持ちとそうではない世界があるという世界における普遍的な真実だったのでしょうか。
貴族社会に属さない主人公が、そうした見知らぬ貴族社会に出会うことで、物語の歯車は大きく回り出すのです。
自然児ハイジには、家庭教師のロッテンマイヤーさんのいるフランクフルトのお金持ちのクララが貧しいアルプスのハイジの世界に闖入してきて、世界が変わります。
小公子セーラは、父親の破産によって落ちぶれて、貴族的な教育を施すと評判のミンチン学園でメイドの身分に身を落として、庶民の悲惨な世界を体験して(でも庶民には当たり前の世界)、やがては救済者の登場によってお金持ちに返り咲いてお金持ちになることで物語を終えます。物語のキーワードは「落ちぶれてもプリンセスだった頃の誇り高さを失わない」というものでした。
「貴族的であること」とは、生き方なのです。
選民意識と言い換えてもよいでしょうか。良い意味での貴族主義を信じていたいですね。ノーブレス・オブリージュとか。高貴な人は下々の人たちが決して行えぬことをするものです。それが本当の貴族!
貴族とは、外敵から祖国を防衛して、爵位を得た戦う人たちの総称、それが本来の意味なのですから!
貴族の階級
イギリスの貴族には、爵位に応じて序列があります。ヨーロッパでもほぼ同じですが、国ごとに微妙に序列や名称が異なります。
皇族以外のイギリスにおける最高位は、伯爵 Earl、英国以外ではCount。フィガロの結婚のアルマヴィーヴァ伯爵は、Count Almavivaです。
アールグレイティーとは、グレイ卿(グレイ伯爵)のお茶という意味です。
最近の映画の題名にもなった公爵 Duke(ジューク)。ナポレオンを倒した男としてその名を知らしめたウェリントン卿は公爵だったのです。
イギリス以外では侯爵は Marquis(マークウィス) 。わたしはよくこのMarquisと軍隊の元帥に当たるMarshal をよく混同してしまいます。
そして「エマ」にも登場した子爵 Viscount(ヴァイスカウント)。
最低位は男爵 Baron となります。トラップ大佐は海軍の英雄として、男爵位を与えられたのです。貴族階級最下位でも、庶民から見れば雲上人なのです。
江戸時代の領主にも家柄に応じてして良いことと良くないことがあったのと同じで、伯爵に許されても男爵には許されぬことなどのいろいろな特権が存在したそうです。
一連の世界名作劇場作品、ならびにアニメ「エマ」を観て、厳然と人と人とを隔てる階級や階級意識を意識しました。
人と人を隔てるもの
お金持ちはお金持ちとしか結婚しないし、貴族の間では、貴族的な教養と伝統を共有するかで、人種差別をします。階級社会差別という言葉が適切かもしれませんが、大きな違いはありません、貴族位を鼻にかける人間には。
現代においては差別とは肌の色によることがほとんどですが (LGBTQによる差別が二十一世紀になって顕著化しました)、人は教育によって人を差別して、また英語世界ではどんなアクセントの英語を喋るかで人を区別します。
分類することは何事においても便利なことですが、貴族と非貴族、上品な英語とそうではない英語、お金持ちとそうではない人たち、とにかく社会は人と人との間に溝を作るのが好きですね。
そうしてゆく方が楽に生きられるからなのでしょうが、人と人との間に存在する区別に差別。
そういうものが存在することを改めて確認して悲しくなります。
似たもの同士で生きてゆくのがいい。でも棲み分けばかりが発達しては人と人はますます離れてゆく。
人は人類をコンセプト的に愛せても、隣人は愛せないものです。
自分一人で生きてゆきたい人と、利権集団の一員として、保守と呼ばれて自分の集団の中の価値観を守りつづて生きてゆく人たち。
違った世界があることは多様性でしょうか。
シェイクスピア世界の面白さは、階級社会を見る面白さだと、どこかで読みました。階級社会間の抗争こそが人間を観察する最良の場なのだとか。
世界名作劇場の提供してくれる異なる世界の出会うところは、シェイクスピア的な人間とはなにかを考える格好の場所なのかもしれません。
紆余曲折の末に、最後にはHappily Ever After。お幸せに!
アニメでは原作には後日譚として、二人は四人の子を得たと伝えて終わります。幸せな家庭!それがアニメ「エマ」の結幕でした。ここにも世界名作劇場に通じる精神を感じ取ることが出来ます。
アニメ並びに漫画原作の「エマ」、名作です。おススメですよ。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。