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ジーン・セバーグと横縞/ 『勝手にしやがれ』

こんにちは。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
わたくしは、3日連続で劇場に足を運ぶことができすこぶる調子の良い今日この頃です。

因みに何を鑑賞したか申し上げますと、

最愛の『裁かるゝジャンヌ』と『奇跡』のドライヤー2本立て
カラックスの『ポーラX』(これにてカラックス完走!)
カーウァイの『ブエノスアイレス』4Kレストア

でございます。


というのはさて置き、
今回は、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作『勝手にしやがれ』についての文章を綴りたいと思います。






言わずと知れた、ヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品『勝手にしやがれ』は、当時29歳であったジャン=リュック・ゴダール監督の長編第一作です。

今回の記事では、この『勝手にしやがれ』をジーン・セバーグ演じる主人公パトリシア・フランキーニの装いに焦点を当て、作中の彼女の言動と服装との関わりについて展開していきます。




本作『勝手にしやがれ』を服装に関する視点から見たとき、最も印象的なのは、作中で徹底的に取り入れられている「ボーダー(横縞)」では無いでしょうか。

元来、ボーダー(横縞)は西洋では悪魔の柄と見なされており、それ故、犯罪者や異端者などに着せさせていた服でしたが、16世紀頃にバスク地方の漁師が、ボーダーシャツを着ていたのが後にフランス海軍に採用され、現在に至るまで国内外で広域に広まったと言われています。


この「悪魔の柄」、をパトリシアのルックに多用したゴダールの思惑とは何なのでしょうか。


まず、作中に登場するパトリシアのルックは数多くありますが、このとき注目したいのは、冒頭の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」のボトルネックのプルオーバーを着用したルックから、ラストのウエストが絞られたボーダーのフレアワンピースのルックにかけて、彼女の服装が次第に保守的なものへと変化していく点です。

本作のキービジュアルである冒頭のパリの街中でのミシェルとのシークエンスでは、彼女が売る米国の日刊新聞である「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」と書かれたプルオーバーがポイントの極めてモダンな装いを見せています。


次の、ミシェルの誘いを断り編集者に会いにいく一連のシークエンスでは、七分袖のボーダーTシャツにロングのプリーツスカート、目元にはキャットアイのサングラスを携えています。


加えて、ミシェルの帽子を頭の上にちょこんと乗せるシーンも挿入されています。


帰宅すると彼女のアパルトマンには彼がおり、この部屋で2人は戯れる訳ですが、この時パトリシアは、ストライプのワンピースからミシェルのシャツを羽織るルックへ、そして無地のタイトシルエットワンピースへと次々と衣装を変えます。

このワンピースを纏ったシークエンスでは、カフェでパトリシアとミシェルが
「ディオールで買って?」
―「嫌だ、スーパーの方が10倍良い。」
と話しており、この会話では、当時の"モード"を直喩的に嘲笑してると見ていいのでしょうか。


そして、ジャン=ピエール・メルヴィル演じるアメリカ人作家にインタビューをするためにパトリシアが空港へ向かうシーンからラストにかけては、ウエストが絞られたボーダーのフレアワンピースという極めて女性的なシルエットのルックと、それにカーディガンを羽織ったルックを披露して幕が閉じられています。



このように歴史的時系列と相反して、次第に登場人物(パトリシア)の服装が保守的なスタイルへと変化していく。この逆進には、過去のスタイルが過去のものであることを強調する効果が発揮されていると私は考えます。

左翼性が強く、映画史における規定概念を打ち壊したゴダールは、服飾史に関する“新たな波”について言及したのでは無いでしょうか。


作中、彼女の活発的な魅力を惹き立たせる、いわゆる「メンズライク」のようなモダンな装いは、ミシェルと2人のみの場面に限って見せられています。

また、ゴダール作品において非常に頻繁にみられる、ゴダール本人のナレーション挿入に理由づけられるように、彼は作品に自己の存在を主張します。

ジョルジュ=ド・ボールガール演じるミシェルを自身の化身としていたならば、世俗では平凡な女性が、ゴダールにかかれば、社会的枠組みに囚われない開放的で魅力的な女性になり得るというメタファーととることが出来るのではないでしょうか。

さらに、パトリシアが見せる装いとは徹底して導入されている「ボーダー」もまた、ミシェルと2人のみの場面に限って見せられています。

上述した通り、元来、横縞は悪魔の柄と見なされていました。つまり、ボーダーの服を着ているということは相手を欺いているという、邪(よこしま)な態度を見出すことができるのです。

そして、ここからみて取れるのは、ミシェル(=ゴダール)への実直性です。

イタリアへ逃げることを一度は了承するパトリシアでしたが、彼女は翌朝に心変わりし、ミシェルを警察に売り渡して最終的には彼を死へと追いやります。全編を通じてミシェル(=ゴダール)に対して実直的に描かれてきたパトリシアでしたが、最終的には彼を裏切るという邪な態度が描かれています。

この結末からは、当時のフランス社会に対するゴダールの痛烈な批判と悲観が伝わってきます。

本作『勝手にしやがれ』発表前のゴダールは、社会的にはまだ何者でもない一介のシネフィル。保守的な思想がメインストリームから動かない状況下で、枠組みからの解放を求める自己の主張が誰にも認められないという、鬱々と屈折した感情が悲観的に描写されているように私には感じられました。




かの有名なフランスの歴史的傑作、『天井桟敷の人々』の作中にこのような言葉があります。
「女は誰のものでもない以上、嫉妬は全て男のものなのだ。」

上記の言葉のように、本作『勝手にしやがれ』では人やモノ、そして文化は社会のモノでも誰のモノでもなく、抑圧の対象にもなり得図、解放されるべきである。という保守的概念の脱却が声高に叫ばれているのでは無いでしょうか。






今回もまた、つらつらと書き連ねていたら予想以上に長い文章になってしましました。

もしも最後まで読んでくれた方がいらっしゃるならば、そんなあなたのところまで新聞を売りに行きたいぐらい嬉しいです。

ありがとうございました。



参考
https://www.afpbb.com/articles/-/3020300
https://www.fashion-press.net/news/47114
https://fashion-guide.jp/trivia/cardin-pretaporter.html
https://www.homemate-research-apparel.com/useful/11649_shopp_038/



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