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パリにまどろめ。 / 『ポンヌフの恋人』

皆さんこんにちは。
私は今朝目覚めたら、史上経験したことの無い肩背中の激痛に襲われています。あまりの痛みに『アネット』の如く、息すら出来ません(これは比喩ではありません)。明日は、重たいスーツケースと共に長距離移動をする予定があるというのにどうしたものか…


ところで、
『アネット』と申し上げましたが、私は高校生の頃からカラックスがとてもとてもとても好きです。先月、長らく気になっていたフィルムアート社の『レオス・カラックス 映画を彷徨う人』を遂に購入しました。これがまた面白い。『TOKYO! 』の撮影における裏話なども知れて、ファンとしては堪らない一冊です。


そんなカラックスの代表作である『ポンヌフの恋人』。
愛してやまないこの作品について、今回は綴りたいと思います。






映画が表象する対象、あるいはもっと大きく、社会において、そのすべての根源にあるのは「生命」だと思います。ジャン・ルノワールは『ピクニック』で、ブランコの運動に生命の躍動と愛の煌めきを乗せ、ルイ・マルは『死刑台のエレベーター』で、一つの命を終わらせること(=死)から社会と向き合い、ヴァルダは『落穂拾い』で、「拾う」という行為を通じてこの世に生ける愛をまなざしました。



今回主題的に言及する、カラックスの1992年の作品、『ポンヌフの恋人』。

この作品は、いわゆる「ハッピーエンド」で締めくくられていますが、当初カラックスが考案していたのは、ポンヌフ橋から落ちた(=飛び込んだ)アレックス(ドニ・ラヴァン)とミシェル(ジュリエット・ビノシュ)が、水面から顔を出したとき、2度と互いの顔を見つけることは出来ないというものだったようです。

この『ポンヌフの恋人』の製作には3年の歳月が費やされ、幾度となく資金不足に見舞われたといったように、過酷を極めたその製作背景を有するのは周知の事実。

これにより、ドニとビノシュは心身を激しく消耗してしまい、彼らを死なせたくないという想いからエンディングを明るいものへと書き換えたという事実が、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社. 2022. P.63)における、カラックス本人へのインタビューによって明らかになっています。


 この世は不条理で、救いようがない。その事実から乖離しないように、その現実を描き切るように、フランス映画は「バッドエンド」の作品を世に多く送り出してきたように思います。

愛情の永遠性ないし、物事の永遠性は存在し兼ねる。
そういった思考回路に至る所以は、フランス(及びヨーロッパ諸国)の歴史的背景、反対に、カタルシスを多く内包したアメリカ映画と、そのアメリカが有する歴史的背景を考慮しても良いのかも知れません。

そのため人々は、無意識的に自己の防衛をするため、虚構や不可逆性の中に入り込むようにして、「バッドエンド」をフランス映画を求めたのだと私は思います。


 では、『ポンヌフの恋人』における「ハッピーエンド」の意義とは何なのでしょうか。現実とは逆説的なエンディングには、フランス社会における「生命」に何が見出されるのでしょうか。


―「海を見たことはある?水平線は?」

そう言って、海へと赴くミシェルとアレックスは、まず初めに夕暮れ時の不気味なほど深いオレンジ色(まるで、前半部に挿入されるアレックスの火吹き芸の炎のよう)の海を目にし、翌朝になると、既に海に背を向け橋へと戻る帰路に立っており、その2人の様子は、おそらく空撮で俯瞰的に捉えられています。

「目の前に海があるのに、あんたは足元しか見てない。」
ミシェルのその台詞が投げかけられるとき、我々は広い砂浜の中で微小に存在する、画面左の2人の姿しか見ていないことに気が付く。


本作では、浮浪者の施設や祝祭日の街といったドキュメンタリー的映像の挿入が見られ、ここでフランス社会有するリアリズムへの、
あるいは、手に入れかけた愛を失うことを恐れたアレックスが、金の入った缶を川に落としたり、ミシェルを探すポスターを燃やしたり、ミシェル諸共ポンヌフ橋から身を投げたりするシークエンスでは「永遠性の不在」というリアリズムへの、言及が試みられています。


ショーペンハウアーによれば、主観である意志に対応する客観としてのみ世界は存在し、「盲目的な生存意志」が各人の根底にあるようです。
すなわち、自己があるから世界があり、アレックスとミシェルの2人の世界があるから、フランスという社会がその対応としてある訳です。


そういった作品を主導する、フィクションの中のノンフィクション性と相反するような、フィクション的エンディングによって、人々を厭世観から解放する役割を担っているのではないでしょうか。

大きく開いて散って行く花火は永遠ではありませんが、その美しさの記憶、その美しさに心動かされ踊り狂った記憶、未来に残した1発の銃弾は、一度手に入れたら失うことは無い、そういうことにしても良かろう、とカラックスは判断したのでは無いでしょうか。






「仕方ないの。生きていく他ないの。」
そう言って(厳密には手話による語りですが)始まる濱口竜介監督作、『ドライブ・マイ・カー』における劇中劇のラストシーンでは、私がつらつらと綴ってきた文章を総括するような言葉が投げかけられています。

「長い、長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。― そして最後の日がきたら、大人しく死んでゆきましょう。そしてあの世でも申し上げるの。あたしたちは苦しみましたって。泣きましたって。つらかったって。」


ありがとうございました。

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