見出し画像

ヴィトゲンシュタインありがとう、言語化弱者は助かりました。

最近哲学を少し学んでみた。

私は昔から「絶対哲学向いてるよ!」とよく言われているけれど言語化がド下手だ。
変なことを色々考える癖に言語化ができないのでよく「何を言っているのかわからない」と言われ1人悲しんでいます。

「誰にも理解されない孤独!」と感じていることは大抵言語化ができないせいなのでは?と、最近気が付きました。愚かかもー!

「孤独」も「孤独=1人」というイメージが刷り込まれているから恋人がいないとか、よく1人で行動しているとか、
人が1人でいるだけで自他ともに孤独と思い認めることがあるのかも。
最近は人といるのに孤独を感じるバグも結構な人に起きているらしいのですが。

本題に移りますね。
小さい頃私が考えていたことと同じことをもっと前にヴィトゲンシュタインが考えていて言語化してわかりやすい例まで挙げていたなんて...!と、とてもうれしくなっています。

「箱の中のカブトムシ」を少し学びました。
(以下間違いがあったら申し訳ないので正しい情報を知りたい方はご自身で調べてもらった方が良いかと思います。)

箱を持っている人に中に入っているものは何かと尋ねると「カブトムシだ」と答える。
箱を持っている相手はそれをカブトムシと認識している。
箱の中は他の人が見ることはできない。
つまりそれがクワガタなどカブトムシ以外の何であろうが他の人にはわからない。

彼は上記の思考実験を目に見えず他者と共有することのできない「痛み」を説明するのに使ったそうです。

小学生の頃私は保健室常習犯で、6年間で怪我と体調不良で通った合計はぶっちぎり1位の自信があります。
(私の学年だけ保健室利用者数他の学年の倍以上だった。)
存在しない帰宅部が名前だけ存在するように、もう保健室仮眠部と言っても過言ではないくらい通いました(最悪)

そんな私が困っていたのは「しんどい」と保健室に行った時に「どうしんどいの?」と言われることでした。
まだ「だるい」という言葉を知らなかった時。

頭が痛い,熱がありそうだ,お腹が気持ち悪い,と体調不良にも種類がある中、特徴のない「だるい」

すぐに布団に横になりたいし雨のようにどんよりとして泥に沈みそうでもう一度立ち上がるのに苦労しそうな感覚をこのように形容することすらできませんでしたし、
先生の言う「だるい」はよくわからないし、
先生が言うならそうだろう、「だるい!」と認識しそう伝えて、それがもし間違った使い方をしているとわかった時のことを思うと怖いし確信が持てなくて、首を傾げて俯くことしか出来ませんでした。

いつから「だるい」とその感覚が結びつき認識できるようになったのかは覚えていませんが、実際今も自信はないです。

「お腹が気持ち悪い」もそうでした。
「胃が気持ち悪いの?それとも腸?」と言われた時、お腹はお腹だよー!という気持ちでした。
幸い私は酷い乗り物酔いを持っていたので「気持ち悪い」はそこで覚え、胃の場所は「乗り物酔いした時に気持ち悪くなる場所」と覚えました。
そしてそこから胃痛,胃もたれ,などを覚えました。

吐瀉物の登ってくる感覚。
吐瀉物の実態のおかげで認識した喉,食道の形,場所。
嘔吐による大きな動き具合と痛みを感じたことによって把握した胃の場所。

目に見えるもの、形のあるもの、触れるもの、それがあることによって身体で感じることの出来る感覚
何事も感覚を伴ってしかやっと理解できないのは感性が貧しいのかもしれません、悲しくなってきました。

「気持ち悪い」は確信を持てた吐き気でしか知らないので、虫を見た時や集合体恐怖症などで多くの人が言う「気持ち悪い」という感覚が周囲と合っているのか、という自信は未だあまりないです。

ミミズが指を這った時、ひんやり,ぶよぶよ,こそばゆい,が、脳内で「気持ち悪い」に変換された時、恐怖,混乱しました。
人が言うには「かわいくない」らしいです。ミミズ。
でも私はかわいいと思っているので、思い込んでいるだけかもしれませんが、触れます。
だから気持ち悪いと浮かぶはずがないんです、おかしい、悲しい。

「頭が痛い」もそう。
「どの辺が?」までは答えられるけど、「ズキズキ?ガンガン?キンキン?ジンジン?ジワジワ?」なんて聞かれたらもうわからない。
「ギューって絞られる感じ?針が刺さるような感じ?ハンマーで殴られているような感じ?」と聞かれて初めてわかるようになりました。
それでもそんな経験実際にないし、覚えるほど似たような経験をしたこともないので確信は持てないままでしたが。

よく保健室に来るくせに!迷惑な児童ですね!
ごめんなさい!反省してます!

そうしてそんな保健室の先生との意思疎通,体調不良の感覚の共有を行っているうちに湧き上がった「相手の想像する感覚が私にとって同じ感覚なのかわからない」という気持ちを悶々と抱え続けていました。

私は雑草抜きが好きでした。
学年で育てた植物が植わっている花壇を綺麗にすると先生が喜ぶからです。
それに色々な種類の草を見るのも楽しかったです。
だから進んで生き物を育てる係に入りました。
けれど私が「雑草抜き楽しい!」と同じ係の子に言うと「私は嫌い、楽しくない、面白くない、面倒くさい」と言われ「普通は楽しくないのか...」と悲しくなりました。

それからも雑草むしりは続けましたし、相変わらず苦ではなくいつまでも続けたいくらい楽しい。
でも、この「楽しい」は本当は使う場面が違うのかもしれない。

とか、自信のなさは生まれつきなのでそんなことばかり考えて、そのうちにまた思いついたのは
「私が思ってる楽しいと人の思う楽しいの構成要素は果たして100%一致するのかな。」
「楽しいを"それはうれしいという感情だよ"と教えられて育った子は楽しいを嬉しいと認識するだろうし、それは誤認だけどその子にとっちゃ間違ってはいない感覚になる。」

私は言語化が下手な上に会話も下手で、
どう思われるかも怖いから返答にも時間がかかる。
なので口頭での会話は特に質の低すぎるものしかできない。

母親に上記の思考を年数を空けて打ち明けたことが何度かあります。
母は覚えていないので毎度新しい話を聞くように聞きます。
しかし、まぁ今回も通じる訳もなく、を繰り返し、
通じない=覚えない→覚えていない=通じていなかった
という確認を取るだけの一方的な作業をするだけになります。

誰も 楽しい や うれしい の感情を数値化して具体的に表し、私がその瞬間に感じた感情を可視化し、「見ろ!これが楽しいだ!」と教えてはくれないからそれを正しく認識して覚えることはできないし、
胸の辺りでぶわぁあっと大きな風が吹き抜けたような確かな感覚を「爽快感」なのか「胸騒ぎ」なのか(どちらの時でも私の身体に起こるのは同じ感覚なので)わかることもないし、その感覚の言葉に自信を持って言える日も来ないんだと泣いた覚えがあります。
(爽快感と胸騒ぎは状況で判断することにしました。)

母親は勿論私の下手な言語化では理解できなかったので、うちの子は何にそんなに怯えているのだろうと呆れながらも接してくれたことを覚えています。
素直に思ったことを言えばいいのに自信が無いので間違えた場合否定されるのが怖いのです。

けれど現代人が悩むことって大抵昔の人が答えを出してくれているんですね、半分くらい当たり前ですよね。
1人の人間 対 今まで生きてきた人間の数 だったら、私がわからないことがわかっていないことの方が少ないかもしれません。

ずーっと、応用が効く悩みを今日ヴィトゲンシュタインが間接的に解決してくれていたことが本当に嬉しく、楽しく、感動、興奮しました。

まだ自信を持って何も言えないのでそれっぽい単語を並べていますが。
本当に嬉しかった1日でした。

人の思考を知るのは楽しいけれども、人の名前を覚えるのが苦手なので自分が良いと思った名言も「何何なのだって、誰かが言ってた!」状態になるのが昔からの悩みです。

ヴィトゲンシュタインは忘れないようにしたいですが、12時間も経てばこれを書くまで忘れていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?