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舞台『フラガール - dance for smile -』に何故こんなにも心を打たれたのか考えた

あまりにも名作である。

2019年に井上小百合ちゃんを主演に上演された本作。2021年になった今年、主演・樋口日奈ちゃんを含む新たなキャストを迎えて再演が行われた。4月3日から幕を開け、つい先日、4月4日(日)昼公演を観劇して参りました。

もう、しょっぱなから感涙してしまった。前回観たときは中盤あたりから後半にかけてを丸々涙しながら観ていたのが、今回は全編のストーリーを知っているもんだから、登場人物が現れるたびにその後の顛末がよぎって涙が出るというバグのような観劇スタイルになってしまいました。

ストーリー自体があまりにも良いことは当然疑いようなく、しかし、本作に心を打たれた理由はまた別の点にこそあると思っている。というか、今回観劇して改めて感じたのだ。

※コロナウイルスに関係する内容の注記が表示されていますが、文言を含んだWEBニュースへのリンクを貼っているのみで、本内容では直接的に触れていません。

結論から言えば、それはクライマックスの場面である。

ひなちま演じる紀美子達が目指してきた、ハワイアンセンターオープンの日を遂に迎え、出演するフラガール達が客前で初めて披露するフラダンス。

そしてセンターを務める紀美子が一人ステージに残って披露する、約2分間のソロダンス。

これがもう!この"陽"に満ちたダンスには落涙するほかない!

紀美子や早苗が初めて平山まどか先生のパフォーマンスを目の当たりにした時や、紀美子の母が紀美子のダンスを目撃した時に、ダンスを通して彼女達がそこに見た「ワイキキの太陽と海」が、確かにBunkamuraシアターコクーンのあの舞台上にも昇り、そして波を立てていた。

そんな形で、一観客としてフラガール達のダンスに震える程感動を覚えたわけだが、それはクライマックスの大団円がただ良かったというだけに留まる話ではないのだ、と言いたい。

この作品にはフィクションの域に留まらない熱情が常に漂っていた。その正体は、ひなちまをはじめとするフラガールを演じた彼女達が、この舞台に挑むにあたり立ち向かった試練に潜んでいる。

フラガールを演じた彼女達は、本舞台に出演するにあたって実際にフラダンスを(技術も振付も)身に着けたわけである。ダンス経験が全くない人はおそらくいないはずだが、とは言え、その過酷さは想像に難い。

ひなちまにしたって、以前出演したNHK『ガクたび』でフラダンス部に体験入部・人前で披露する程に習得していたが、だから今回余裕だなんてことはないはずだ。

そのことは、各種ニュースサイトのレポートや、演出・岡村俊一さんのTwitterからも見受けられる。舞台稽古とは別軸でそれを行わなければいけないのは相当大変だっただろう。

そして当然、いざ幕が上がった時、フラダンスを生で披露する!(毎公演のたびに! 日によっては2回!)もはやそれは演技ではない! そのことが、何より重要なのだ。

とりわけ紀美子のソロダンスが眩しい。あれはここまでのストーリーを経て、ただの炭鉱の娘だった紀美子がプロのダンサーとして成長した(し切った)姿を示すためのダンスである。それを演じるひなちまは、もちろんミスは許されないし、更にそのダンスに「挑戦」の色すら滲んではいけないように思う。「紀美子はプロとしてこのパフォーマンスが当然出来るようになったんですよ」という見え方を実現しなければならないからだ。

実際見た限り、それは確かに達成されていた(感涙)ように思うが、だからこそ彼女達の両肩にかかった試練がいかに果てしないものだったかがわかる。

そのことが目に見えて結実するのが、あのクライマックスのフラダンスであるのだ。

つまり、炭鉱の閉鎖という危機から生まれの地を救う為に立ち上がった彼女達と、この舞台を良いものとして完成させる為に挑んだ彼女達の姿が、フラダンスを通して重なり合っている。フィクションとノンフィクションのドラマが見事に一致しているのだ。

だからあのダンスは素晴らしいのだ。物語の中では、何度も「ステージ上では笑顔でいること」を叫ばれてきた。どれだけ過酷な状況に遭ってもそうあることがプロだと説くこの精神は、そっくりそのまま演者にも降りかかっていた(無論、"笑顔"の部分は様々な言葉に置き換わり得る)。

それを踏まえて観る、あの笑顔のフラダンスは、あまりにも輝いていた。徹底して"陽"であったあの時間は彼女達の努力の賜物であり、そして彼女達はそんなこと露とも現さないのだ。

加えて言えば、紀美子はフラガールチームのセンターでありリーダーだ。その姿は本舞台の座長を務めるひなちまの立場とも重なるわけで。そのことがまた、あのソロダンスの価値を引き上げる。

ラストに明かされた、まどか先生のモデルとなったカレイナニ早川氏ご本人が今なおいわきの地でフラガールの育成に励んでいるという事実がまた、フィクションとノンフィクションが手を取り合ってこちらに感動を与えてくれる。

この舞台で示された最も誇り高きことはその事実自体である、と理解した瞬間の涙。この観劇体験は、ちょっと、ほかに代えがたいものであった。何度観ても震える。

ちなみに、上記の内容は井上小百合ちゃん出演・2019年の初演版にも共通する話である。今回の再演で改めて観劇し、改めて感じたために、一年越しに筆を取ったのが本noteである。

しかしやはり、演者が変わったことで見え方の変化はあるというもの(再演ないしWキャストの醍醐味である)。補足的に一旦それに触れていきたい。基本的には、彼女達の演じた紀美子についてです。

さゆの場合、彼女の演じた紀美子は、炭鉱町育ちの「素朴な少女」である印象が色濃かった。(この物語における)紀美子という人物を一から辿った彼女の演技は、ある種「田舎っぽい」「泥臭い」イメージが強く、それ故に、紀美子が今回挑んだ挑戦や生まれの山を救いたい魂が、観ているこちらに伝わるほど熱く滾る。

さゆによる『フラガール』は、紀美子の成長譚としての色が強い、熱い数ヶ月を語った作品であったように感じたのだ。

ひなちまの場合、秘めたスターの佇まいが冒頭から漏れ出ていた。極端な話、最初っからじんわりとキラキラしてしまっていて、炭鉱の娘にはちょっと見えなかったくらいだ。それは、後に長くハワイアンセンターを支えていく未来の姿をその身に滲ませているような、本作の基となった「実話」に宿る魂を纏ったような、そんな印象であった。

その印象はまさにクライマックスのダンスで頂点を迎えるわけだが、つまり、ひなちまによる『フラガール』は、後に誕生するプロダンサーの原点としての美しさを放っていたと言える。

あくまで個人的見解としての見え方の違いであるが、ともかく今回は、『フラガール』という物語が元来持つ魅力だけではなく、再演としての別人が演じることの面白さもひしひし感じながら観れたという話でした。

(早苗を今回演じたAKB48・山内瑞葵さんも、よりピュアさが際立ってキャラクターの表現に寄与していたように思う)

(一応断るが、前回は映画版すら見たことがない中での一回限りにして初観劇だったことは念頭に置いておきたい。要するに、どっちが良くて悪くてという話がしたかった訳じゃないのだ)

フィクションとノンフィクションのドラマの一致。思えばそれは、乃木坂46版 ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』においても発生していた。これは偶然だが、井上小百合ちゃん・樋口日奈ちゃんの二人は何を隠そうセーラー戦士である(当方、セラミュ過激派である)。

『美少女戦士セーラームーン』の物語では、月野うさぎとセーラー戦士達4人が運命に定められた使命に立ち向かい、5人の絆が育まれ、そしてすべてを達成し日常に戻る。

それは『フラガール』と同じように、彼女達出演メンバーがセーラームーンミュージカルという大舞台に手を取りながら立ち向かったことと同義ではないか。本人らが作品に感じる壁の高さは測り知れないものであるし、その舞台期間を通して5人の関係は(どのチームにおいても)相当深まった。その経験は今なお彼女達の中で大きいことなはずだ。

そうしたフィクションとノンフィクションの融合が透けて見えるからこそ、乃木坂46版 ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』は、再演版を含んだ3チームの皆の関係は、どうしようもなく尊いのだ。

加えて、出演メンバー達が、『セーラームーン』という作品やセーラー戦士というキャラクターに対して元々抱いていた憧れを何度も口にし、そして今回の出演をもって「夢が叶った」と宣言することがまた尊い。

虚実を切り分けもせず、見境なく混同するでもなく、等しく尊いものとして重ね合う。

虚実が美しく重なり合うからこそ、『フラガール』のラストにおいて、早苗を演じた山内瑞葵さんが(劇中着ていた服ではなく)フラの衣装を身にまとって現れ、チームメンバーの皆と共にステージで歌い踊ることがまた、涙を誘うのだ。

だってそれは、早苗と紀美子との間で交わされた夢が叶った瞬間であるわけで。愛したキャラクターが救われた瞬間をそこに見出してしまうわけで。

本当、フィクションなのかノンフィクションなのかなんて超えちゃってるわけですよ。結局重要なのは、そこに誰のどんな思いが込められているかとか、どんな物語が紡がれるのかとかであって。

それらが受け取り手である我々の胸を打つ理由において、虚か実かは関わらないわけで。その問いがあるなら、答えは「どちらであっても、」なのだ。この感覚は、奇しくも同じ本年に完成された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』という作品が語ったこととも近いように思う。

もちろん本当の意味で「どっちでもいい・違いはない」ということではなく、本質的には、重なっているよね、常にどちらもが溶け合ってるよねという話で。そして舞台『フラガール』においては、その"溶け合い"が限りなく密接であった。だから感動した。

それはキャラクターの歩みと演者の挑戦との話だけではなく、『フラガール』という物語そのものが語るテーマやメッセージもまた同様である。

福島県を舞台にした『フラガール - dance for smile -』という作品の大いなる価値は、そこに一つある。かつていわき市を救ったフラガールという存在が、主演・樋口日奈ちゃん達出演者の方々が、虚実を超えて困難に立ち向かえる力強い姿勢を見せてくれたことは、間違いなく人の背中を押すはずだ。

「不要不急」という表現が、こうしたエンターテイメントの上演・観賞を含んでしまうなら、はっきり言ってそんな言葉嫌いだ。エンターテイメントだろうが何だろうが、確かに届くものがある。それは上に書いたようにフィクションの域に留まるものではない。

目撃した一観客として胸を張って言える。舞台『フラガール - dance for smile -』は紛れもなく名作だ。

これを読んだけど舞台はまだ観ていない、という方には観劇を義務として課すので今すぐチケットを取ってください。

(追記)

4月12日、無事幕が下りましたね。皆さんお疲れ様でした。

以上。





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