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金井美恵子「噂の娘」を読む。

「噂の娘」は、まだ子供である「私」が、弟と一緒に、知り合いの美容室のマダムに預けられ、そこで見聞きしたこと、また、それ以外のさまざまな記憶の物語である。
1950年代の話である。「私」の父親は、なぜかわからないが遠くの町の病院に行くことになり、当然、母親も付き添うことになる。
「私」が預けられるのはそのためなのだが、しかし、「私」は、父親のどこがどのように具合が悪いのか、なぜ、近くの病院ではなく遠くの病院へ行かなくてはならないのか、なぜ、何日も留守にしなくてはならないのか、くわしい点は何もわからないままなのだ。
美容院「モナミ」には、マダムと、その家の三姉妹、従業員の女の子たちがいて、「私」と弟にあれこれと親切にしてくれるのだが、そんな中で「私」は当然、不安を抱えつつ、過ごしている。

「私」は美容院で、さまざまなことを聞き、さまざまなものを目にする。周囲の大人たちが繰り広げる噂話(誰それさんの駆け落ち、浮気、結婚、自殺)、映画の話・・・、それから、娘たちの化粧やファッション(彼女たちはたいてい、オードリー・ヘップバーンをまねている)、瀬戸物屋の物干し台で女の子たちが繰り広げるお人形遊び(人形たちは、靴やお菓子や瀬戸物が入っていた箱でつくられたおうちに住んでいる)、など。
この、美容院に預けられていたあいだというのは実はそれほどの日数ではないのだが、この数日のあいだに「私」が見聞きする出来事、「私」のさまざまな記憶、そして、「私」の「記憶違い」さえも織り込まれて、物語は、どんどん重層的になってゆく。

「噂の娘」には、これ以外にもうひとつ、織り込まれている物語がある。それは、「私」の愛読書である、バーネットの「秘密の花園」だ。
あらゆる色の糸で記憶の物語が織られ続けているその途中で、現実と物語のあいだの境界線などないように、なんの説明もなく突然、「秘密の花園」が挿入されるのだ。

といっても、バーネットの書いたものがそのまま、引用されているわけではない。
「噂の娘」では、「秘密の花園」は、金井美恵子によって(「私」によって、と言うべきか)美しい文章で新たに書きなおされているのである。
この美しく改変されたもうひとつの「秘密の花園」は、このあともたびたび、それも、忘れかけた頃にふっと、登場してくることになる。

考えてみると、バーネットによって書かれた「秘密の花園」には、読み手の想像力を刺激する要素が多く詰まっている。
たとえば、コレラの流行によって大勢の人々が死に両親も死に、子供であるメアリが屋敷に一人ぼっちにされてしまうという設定。
これだけでもすごいのだが、ほかにも気になるのが、メアリの美しい母親だ。自分の娘などまったく気にかけることなく、いつも「レースがいっぱい」のドレスを着て、遊びほうけているうちにコレラで死んでしまうこの女性、彼女については、いろいろと想像力をかき立てられる。
彼女が、若い金髪の将校と、コレラの蔓延について会話をしているところをメアリがちらりと目にするというシーンがある。とても短いシーンなのだが、ここだけで、この将校と母親のあいだに恋愛のようなものがあったのではないか?と思ってしまう。
植民地の社交界の人間関係は、どういったものだったのか?
それらについて、子供の頃「秘密の花園」が大好きだったという金井美恵子が書き足してみたい、と考えたのは、当然のことかもしれない。

金井美恵子によって書き加えられた部分は、まだほかにもある。
メアリの母親、そして彼女が着ているもの、身に着けている装飾品、持ち物の美しさについての、細かい描写。(彼女の絹のように艶やかな金髪、花や葉や鳥の柄のぬいとり刺繍のレースに覆われた胸元に光る銀と真珠のブローチ、華奢で小さなパラソル、彼女の顔の上で踊る光の斑)
それからそれから、両親の死後、メアリはイギリスへ帰ることになるのだが、その船の上で、詩人になることを夢見ていたことのある、若い士官の心の内までも。
彼は異国趣味を取り入れた詩を書くつもりでいて、登場する少女の名前はメアリじゃ平凡だから、クリスタベル?アナベル・リー?ローズマリー?などと、あれこれ考えるのだ。

この、もうひとつの「秘密の花園」は、「金井美恵子が書いた」と言うよりも、「金井美恵子が脚本を書き、撮影した映画」のように感じられて、とても美しい。

文庫版の最後に収録されているインタビューで著者は、「(小説は)最初から最後まで読み通さなくても、パラパラめくって自分の好きな文章とかピンとくる文章に行き当たったところから読んでいってかまわないし、パラパラ読んでから通読するとか、いろんな読み方があると思います。」と語っているが、私がとくに好きなのは、この、「秘密の花園」の部分なのだ。(もちろん、ほかの部分もあるからこそ、ここが素晴らしく感じられるのだけど)

それから、どうなったのだろう?と、記憶をたどろうとするつぶやきがときおり入りながらも、話は続き、そして、最後の数ページで、これまで語られてきたことがいっきに、「今」という時に収斂される。
ここにたどり着くために最初から丁寧に読み通すのもいいかもしれないけれど、私はこれからも、この小説を、好きな文章を読むために、手に取ることになるだろう。







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